覚者慈音313

光明論 上巻 巻の一
                その1    



              セイキヨウ貴尊 講述


  教主寛大、我セイキョウをしてこの講の解釈を詳かならしめよと命じ給ふ。我、是を深く歓喜べども教主の意の欲する処を伝へ得るや如何にとあやぶむ。汝等今より至らぬは我にありとの心にて聴くべし。最初に、「形を有する光明には位置あり」と仰せられたり。
 汝等にはこの言葉は文章の形容詞の如く脳裏をかすめさりて聴きたるならん。この一語にも深き意味を存す。即ち形を有すると仰せられしは汝等が考ふる形にはあらざるなり。例へば家を建んとして一個の石、一本の柱一本の釘みな悉く形なり。是が組み合はされて家となる如く光明に組織さるる諸々の材料、其々の形を仰せられたるなり。形づけられたる光明は既に姿に組織されたるなり。故に形を有する光明とは基礎的光明より組織されたる光明を指して包含されたるを以て範囲もきはめて広し。一個の細胞と雖も形を有する以上大小を論ずることなし。形ある光明となる細胞が連続すると云ふとも一個々々の集合なれば、其々位置を有するも亦然るなり。形を有すると仰せられしもここに深き考へありてなりと我は感心す。形を有すればこそ組織はあるなり。又形を有するが故に現はるるなり。現はれあるによりて光明は輝く。もし形あると仰せられたるならば深く考慮するに足らざるなり。有するとあるとの区別も斯くも相違あることを見のがし聴きのがすこと勿れ。何となれば有するは含みあり。あるとは現実なればなり。故に、「形を有する光明には位置あり」と説かれたり。位置あればこそ発生はなさるるならん。即ち光の因は光の実を結ぶ。因(たね)ある光は実を結ぶも程度限りあるは云ふ迄もなし。次ぎに
 「位置ある光明には限度あるべし」と仰せられたり。この限度についても意味きはめて深し。汝等が幾何学にて学びし線分に於ては有限無限の区分あれど、神の説かれし限度の比較は大に相違あり。神の説かれし限度とは範囲きはめて広くして、たとへば幾何学線分を神の説にて解かば端限長限線となるなり。故に幾何学線分無限とは長限にすぎざるなりとの結論に達す。


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