覚者慈音305

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO251
大霊界入門記    後編                 
第八、セン 完成門 (仮称)                                                                  その5
                       教主寛大講述


 味、味、即ち味と云ふは何ぞ。密教には味観と云ふ教へあるならん。味とは無言詞を指すなり。言葉なき言葉を以て仏の道を伝へんと計り居ることと思ふが如何。帰するところは無言詞なるべし。善悪邪正理非曲直是を無言詞に化せしむれば、すべては空にして善もなく悪もなく理もなく非もなく、すべては同一のものに化せらるる他なかるべし。然して其が無言詞より有言詞となるに及んで善悪邪正理非曲直のあらはれとなりて、ここに又種々様々の理屈がそれより其へと伝はり行くことは、諸子も察せらるるならん。
 兎に角物事は理を先にして実を後になすと、実を先にして理を後に考ふるの区別あらん。実より理を考ふるは易く理より実を得るは容易のことにあらず。是等は帰するところ同一の関係の如く思はれて事実は、順逆の相違となるなり。世の中は順逆の相違によって或は苦み或は楽みとなる。理なくして実の現はるるものにあらず。ここに工夫と云ふ言葉も従って大切となる。工夫とは無より有を求むるにあるなり。更に又有より無にかへす工夫もなかるべからず。有と云ひ又無と云ふも是又帰する処は、同一関係に帰せしむることを得るなり。工夫なし居るとき何物かが浮び出でて、その思ひに対して答へを与ふるは何によるかと深く追究せば、即ち無言詞が有言詞に化せらるるによってなりとの想像は諸子にもうなづかるるならん。無言詞を不変化自然とせば、有言詞は変化自然となりて現はるることは云ふ迄もなし。不変化自然は絶対なりとせば、変化自然は相対の関係となる。汝等が口にする不去不来の境地とは不変化自然に順ずるを指したるにて、来り去るは変化自然なることは察せらるるならん。故に来ると云ふも迷ひなり。去ると云ふも迷ひなり。来らぬ去らぬ所に至れよとの教へなるべし。果して宗教者の云ふ如く来らぬ去らぬ世界の存するやを工夫し見よ。我等の語る大霊界と宗教者が語る天国とには、相似て等しからざる点少なからずあるなり。肉体を有しながら来らぬ去らぬ世界を知ることはなり難しと思ふが故に、哲学者は死を急ぐ徒輩も稀にはあるなり。彼等は肉体など数ならぬとてたやすく死を択ぶ如きは、真の哲学者にあらず。宗教者又然り。易学者又然あるなり。肉体にはそのすべてが芽を出し実を結ぶ具備を与へられ居るに不拘、是を養育せんとはなさずして前途を急ぎ、大切なる根底を放棄する如き輩の多きは何と云ふ愚なることぞ。肉体を与へられしも不変化自然より現はれたる変化自然の姿なり。変化自然の肉体より不変化自然の根に帰らば、其にて目的は達せられる道理あるなり。諸子はよくよくこの理を究めよ。然して肉体を有する間に不変化自然の大霊界に一歩を印せば其にて天国は汝に現出すること疑ひなかるべし。此理を認識把握してすべてを明らむるにあらざればセンの門に至るとも更に又ギョウの門に移転せらるるやも計られざるなり。 

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