覚者慈音303  大霊界入門記   後編 第八、セン 完成門 (仮称)  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO249
大霊界入門記    後編                 
第八、セン 完成門 (仮称)                                                                  その3
                       教主寛大講述


 虚空に種子を蒔きて花を作り、空路に円周を描きて美観の花流を作る如きは、八流界の小児にすらなし得らるるなり。ましてセンの門に入りたる者の程度を推定測定せば諸子は、如何に空想をたくましくすとも及ばざること遠し。されど人間を超越したる仏達なるによって、最早人間最高の位置に進みたるものなれば、かかることは平易なるわざにてこの界のものは敢へて異とするものあらざるなり。汝等諸子の道話の中に聾唖者と盲人が山間にありて、盲者は琴を弾奏し、聾唖者は画を描きて両者とも名人の位置に達したりと云ふ話あらん。是等もすべては無言詞のはたらきにして有言詞にあらず。我、斯く語らば諸子は思ふならん。如何にすれば可ならんかとその方法を求むるは諸子の思ひならん。是にはむつかしき方法のあるにあらず。汝等諸子の肉体にはその具備を神より授けられ居るによって、唯無言詞を聞かんと努力し居らば自然にその声は聞え、其が発達して遂には真となりて現はるるに至るなり。諸子は斯る具備あることを知らずして等閑に附し居るによってわき出でざるのみ。よって我等は諸子にあたへて是を知らしめたるにすぎず。法は学ばずともその具備ある以上必ずや自然に芽生え来るは即ちその具備あるによってなり。よく汝等等が口にする六感のはたらきとか称し居る言葉は是なり。その具備あるによってなり。思ひもよらぬ処に思ひもよらぬことを発見し其が事実となるに至って、はじめて心づく如き例は屡々あるならん。是等も無言詞の現はれに他ならず。すべての無言詞を聞く力具はらば天界の真相は即ち汝のものとなる。是を知るに及んで己が欲するところに足をむくれば、直ちにその居に至ることは心のままなるべし。無言詞界のすべてを知り尽しギョ、コウ、フクの階を修得したるものはセンの門に入ることの許さるるは当然なりと思ふならん。されど事実は然らざるなり。もとよりセンの門に入る程度迄修養修業してここに至るとも、更にその奥には又も至難なることのあるによってここに於て又も験されて合格せば、はじめて入学を許されて修養の道に励むことを得るなり。センの門より更に第九第十の奥深きところ迄至りて、遂に神と共に生活することを得ると承知せよ。されば人間には進めば必ずこの処に至る具備を与へられ居ることのあるによって人間は尊きなり。人と生れし悦びを諸子は知らざるが故に、唯訳もなく何等なす術を知らずとて一代果にて終らんとするは、我等より言はしむれば宝を与へられ居るに不拘、その宝を玩具として捨るも同様なりと思へば、不憫なりと感ずるは思やりの上より想像せば、諸子も何かそこに一種の新しき思ひが浮び出づるとは思はざるや。

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