覚者慈音284

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO231
大霊界入門記    後編                 
第六、コゥ 活躍門 (仮称) 一名無不成門 (仮称) とも云ふ                                                   その9
                       教主寛大講述


 一寸先を暗と思はば最早その人は死したる人なり。百里千里を明るく生くる人は死しても仙者なりとの理を解することを得るや。前途は明るし。暗きにあらず。汝等は退歩なしおるが故に前途は暗し。否汝等は光明を背後にして暗黒の方向に足を向け居るによって、暗黒より暗黒と益々その度を加へ居るなり。早く光明の方向に足を向けよ。然することによって大霊界は現出するなり。
 汝等衆人は神を恐るるにあらずして神の威厳を恐れ居ることを我等はよく知る。其は神と云ふ位高き者なるが故に、かく考ふれば神の心に叶はじとか、斯くせば神より罰せられるならんとか云へる如き、其は神を知らざるが故に神の威厳のみ考へ居ることは何と云ふ愚なることぞ。神はありとも汝等の眼には映らざるによって、唯想像より神を考へ居る結果の現はれにすぎず。眼に見ることの能はずばありてもなくても唯想像力より色々と思ひ惑ふの他なかるべし。其は即ち虚想なり。空想にあらず。虚想何の益かあらん。徒に神を語らば勿体なしとて神を遠ざけ居るは汝等諸子の信仰ならん。斯る信仰にては虚想の信仰にすぎず。故に通ずることあらざるは云ふ迄もなし。虚想を企らむことなかれ。是を空想に変へよ。この言葉をよくよく味はひて無言詞をとり出して汝のものとせよ。然せざれば大霊界は永久来らざるべし。否見ることすら難からん。我父母は神なり。早く父母の許にかへりたしとの念を深くせよ。我は斯くせよと云ふ言葉を用い居れど其は命令の言葉にあらず。確定後なりと思ひて聞くべし。命令語と確定語との相違なれば決してあやまり聞くことなかれ。宗教者は己の威厳を用いて信仰者を抑圧しながら導かんとする傾向あり。故に彼等の言葉は命令語となる。されど我等は汝等を抑圧的に誘はんとするものにあらねば、我等の言葉は決して命令語にあらずと承知せよ。我等は確定したるものにあらざれば決して斯くせよとか云へる如き汝等の心に命令語となりて伝へんとするものにあらず。確かなることを語るによって斯くも命令語の如く聞ゆる言葉を用い居るに他ならず。我も人なり。汝等も人なり。神にあらず。故に我等は命令語は用いざるなり。
 威厳の度強きは自然の具備にしてその最も高きものは神を措いては他になし。故に神は命令をなし給ふ。されどその命令は慈悲の命令なるによって、実行に移すとも移さずとも神は決して罰するものにあらず。恰も父母が我子に命令なしたりとて実行せずとも罰することをなさざるべし。若し罰するとも其は慈悲の処罰なるによって子は是を怨み妬むものにあらず。是等の例より想像せば可ならん。汝等衆人宗教を信じて釈迦キリストを尊び居れど其は威厳を教へられたるにすぎず。釈迦もキリストも決して神にはあらざるなり。我等は彼等をよく知る。故に公言して憚らざるなり。されど若し我等が事実を汝等に知らしむるならば、釈迦キリストの残しをきたる宗教に傷くことを慮って事実を語らざるのみ。若し慈音が宗教者となりて死したらば、その後彼を信ずるもの釈迦キリストの如く威厳を彼に与へて残しをかば、慈音も釈迦キリストの如く尊ばるるやもはかられざるなり。されど慈音は宗教者にあらず。又我等は彼をして宗教者たらしめんとしてこの書を汝等に示したるにはあらざるなり。この点、よくよく承知せられたし。


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