覚者慈音282

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO229
大霊界入門記    後編                 
第六、コゥ 活躍門 (仮称) 一名無不成門 (仮称) とも云ふ                                                   その7
                       教主寛大講述


 汝等諸子は我等を神の如く考ふるなかれ。汝等諸子と雖もやがてはこの処に移さるるなり。されど未だ神にはあらざるなり。四大後門を終りて後にあらざれば神と共に住ふことは許されざるなりと承知せよ。然してその後は神の子として生活は許さるるやも計られず。我等は神の前に至り又神より遠ざかりつつあれど、神と共に生活することは許されず。さりながらやがては神の子として共に生活する時期は到来する事は、楽みとして任務に励み居るなり。汝等諸子は神を唯怖しきものと考ふるは誤りなり。我等は神を知る又神の声も聞く。神ほど穏和にしてやさしく慈悲のこもりたるものはあらざるなり。一度手に触るれば忘れ難き愛情が身にしみて、唯言葉なき底の有難味を覚ゆるのみ。怖しと思ふ念は露程もあらざるなり。神は決して怖しきものにあらず。是は確言して憚らざるなり。神を恐るる間は神を知らじと思ひて唯一心に修養修業せよ。然して一度神の手汝等に下らば最早我等の教へを聞くの要もなしと承知せよ。
 神は汝の父なり母なり。汝は父母を恐るることなかるべし。父母は汝を愛撫して決して捨ることあらざるならん。汝もし父母を恐るるならば其は汝の心に何か恐るべき原因を有するによってなるべし。汝の神を恐るるはすべて汝の心の暗き故なり。即ち神の威厳を恐るるが故に、近寄ることを得ざるなり。己の心明るければ神に接して何等臆するところなく、抱かれんことを願ふならん。宗教者の多くは神を知らず、唯神の威厳を語り居るにすぎざるが故に神を恐るるなり。神の威厳は広大無辺なり。されど神は恐しきものにあらず。されば神の威厳を恐れざる底の修養修業をなさば、其にて神は汝等を抱き給ふこと疑ひなし。コウの門に移されたるものにして己の心に傷き居らざるが故に、神の前に到ることを悦びとして、神より離れんなど云ふが如き念のあるもの一人としてあらざることは、是即ち修養修業の積みたる者ならではその真をきはむること難しと承知せよ。一度神に抱かれたる其味は到底終生忘れらるるものにあらず。汝等諸子若しコウの世界の仏達の前に来らば、其威厳に打たれて頭を上ぐる事も得られざるべし。恰も猛犬が主人の前に頭を下げ居るに等し。盗人は猛犬を恐れて近寄らざる点に比べて考へ見よ。恰も其如し。
泰岳が汝等の世界に在りし時猛獣毒蛇すら頭を垂れて彼に近寄る。然して彼等は泰岳の手を喜び居りしなり。汝等たとえ悪人なりとも神は決して捨て給はざるべし。この理は汝等と雖も察することを得るならん。汝等日々の生活は前途を暗くして世渡りなし居るが故に苦みは益々加はる。されば前途を明らかにして生活なし居らば楽みより楽みの連続となりて、神の前に到ること決して困難にはあらざるなり。汝等諸子は一寸先は暗として生活なし居るは是即ち苦みより苦みへの連続なり。すべて心の持ちかたを楽みに変へよ。所謂心を明らかにして希望をすつることなかれ。

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