覚者慈音268 未知日記講義第一二巻 大霊界 第五、ギョウ 実地門 (仮称) 一名就業門 (仮称)  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO215
大霊界入門記               後編                 
第五、ギョウ 実地門 (仮称) 一名就業門 (仮称)
    とも云ふ                                                                                                    その9
                       教主寛大講述


 汝等、衆人朝に床を離れ夕に又眠る。然して昼間の労働に於てすら、時間を制限しいささかにても休む間を長くせんと計り居る、諸子の世界は働く時間のあまりに少なし。働きて居ながら尚も其働きをおろそかにして分時にても休まんとする。是を生涯五十年として計算すれば働きの時間はきはめて僅少なるべし。働きを少なくして財宝を多くし、其によって尚も身勝手の楽みを求めんと計る如きは、実にあさましきことならずや。大霊界に移りたるもの働きを将楽(はたらき)と考へて秒時も休むことなし。故に能率はたかまる。是を汝等諸子の世界に比較せば、諸子は二十四時間のうちに働きの時間はあまりに少なきが故に、能率の上らざるは当然なり。大霊界には時間空間すべてのものなければ、働くの連続にして能率のたかまるは、是等の点より考察するも解せらるるならん。のみならず汝等諸子の肉体は不自由なるが故に、手は手として働き、足は足として働き、皆其々個々別々に分れてことをなす。手、働けば足は休養し、足、働けば手は休養する如き具備なるによって、全身悉くが同時に働きをなし居らず。されど大霊界の人類は身体全体が秒時も休まず働きをなし居るなり。例へば一時に多くの仕事を課せらるるとも、全身働くが故にすべてに通じて休まず、然して働きの上に働きて、その力が益々其度をたかめ行くによって楽みは益々加はる。汝等諸子は是等のことを聞きて斯る所には行き度なしと思ふならん。其は汝等の肉体より想像すれば当然の如く思はるれど、我等に言はしむれば汝等程怠惰者あらざるなり。働きを将楽として苦みと云ふことを知らざる大霊界の人類こそ、この上もなき幸福者なり。汝等衆人、手を働かすれば手は疲れ、足を働かすれば足は疲れて休養せずばなり難からん。然るに大霊界のものは如何に働くとも疲れを覚ゆるものにあらず。働けば働く程尚も其度は加はる。其力が増すによってなり。前巻に於て語りし如くジョウの門を終らば、是にて組織は終りたるによって更に第五の門に移さる。是よりは従来学び来りたるすべてを、実施に於て学ばんとなすによって是を実施門と命名けたるなり。
 此事柄より現在のミキョウが、円海として慈音に至り居ることの意味は知られたるならん。現在のミキョウがミキョウとして千万の働きをなし、その傍円海として汝等諸子に及び居るなり。されどミキョウは円海として働く間何もなさずして、天界に遊び居ることはなさずして、千万の仕事に励み居る忙しさは、汝等諸子には到底夢想だになすことを得ざるならん。されど止まることを知らぬ彼なるによって、己の力益々その度をたかめ軈てはセイキョウの座に上がることを許さるるならん。現在のミキョウは斯くも楽みより楽みへと、楽みの連続にて益々楽みの度を加へつつあるなり。是こそ真の極楽世界なり。円海はミキョウとなり、軈てはセイキョウとなり、又其以上段を上りてテッシンの座に到る迄、前途の希望は尽きずして進み居ることに対し、汝等諸子は羨しとは感ぜざるや。
 

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