覚者慈音262

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                         NO210
大霊界入門記   前編                 
気光素と光気素について                                               その5

                      教主寛大講述


 泰岳が語りし虚空に果実を結ばせるとは何故ぞと云ふことを知らんとせば、汝等諸子眼を閉ぢて見よと言ふ。此言葉によって尽るなり。肉眼を閉ぢて心眼を開けよとの意味も含まれたるなり。然して幻影錯覚の生ずるは恰も空間に樹木を作り居ると同様なれば、幻影錯覚ははかなきものにて取るに足らざることも教へたるなり。又空間に樹木を作るは何故ぞのこの言葉を、奥深く追究して考案資料とせよ。然して彼はこの言葉を更に汝等日々の生活に結びつけて、実子と貰い子との話をなしたるならん。実の親子の関係、養子養女との親子の関係に対して語りし言葉を、よく咀嚼玩味せよ。是等は味はへば味ふ程、その意味、その言葉が深長となりて諸子の心に喰ひ入りて何かは知らず忘れ難き、印象を残したりと我等は感ず。是等を無意義に聞きのがしたる人こそ、実に無智にして愚なる者なり。ここに味ふべきことは実の親子と、縁に依って繋れたる親子との関係について諸子は如何に考ふるや。即ち血族性関係なるによって真実の愛は強く、他より結ばれたる縁の愛は唯繋りたるが故に、其処に相違あるなりと思ふは一般の心理なるべし。是等の点より親戚関係と他人との区別は、従って其開きが多きため交はりの程度も、従って厚薄の関係なりとの点より、わけへだてをなすならん。ここに於て神と云ふ一種の異なりたるものを考案して、其によってすべてのつながりを一つになさんと企みたるは即ち宗教なるべし。神の心は広くして何物にも同一の愛を以て是にあたる。恰も実の親子の如しと云へる教へを広めて、一般の人類に神の愛を語り居れど、是等は空論にして実は信仰する者、何かの動機に依って己が心に感銘したるものの他は、神より遠く離るるもの多きは事実なるべし。此事柄を知らしめんがために、泰岳は真の親子と他より結ばれたる親子との関係を語りたるなり。何故人類はかくの如きわけへだてをなすや。すべてを愛せよと言ふ宗教者の教へ、我等もこの言葉を用い居れり。されど我等の語る愛と、宗教者の語る意味に於い、大なる開らきあるなり。理を語りても実を伴はずば、其は無意義の空論なるべし。ここに於て空実一体の教へならでは自然の法則とはならざるなり。
 或人は言ふ。愛は色なりと。実に面白き言葉なり。恰も水の中に色素を投じたりと同様なりとの意味ならん。青色を用ゆれば青色となり、赤色を用ゆれば赤色となる。是即ち愛なりとの言葉は実に面白し。同じ色を投ずる時其分量によりて色の程度も濃厚の区分あらん。愛の力は斯くの如きものなりと云へる事に対して、泰岳の言葉を考へ見よ。

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