覚者慈音261 大霊界入門記 気光素と光気素について  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                         NO209
大霊界入門記   前編                 
気光素と光気素について                                               その4
                      教主寛大講述


  この間のこだま会に於て(二十六年九月一日)、泰岳が語りし如く八流界には空間に植物を作りて果実を結実(むすば)せ居ると語りたり。
 汝等衆人これを如何に認知したるや。彼は言へり。汝等衆人眼を閉じて見よとさとしたるにてはあらざるか。彼の指導は唯訳もなきことの如く思ひて聞きのがせし人は多かるべし。彼は一句一言たりとも空しき教へをなせしにあらず。彼の語りし言葉の奥にはきはめて意味深長なるもの含まれ居りて、其が諸子の心の中に喰ひ入りて軈て花を開らかせ、実を結ばする種子を蒔きたるなり。彼は気光素の教へを以て汝等を導き居るなり。円海は光気素によって汝等を導き、泰岳は気光素によって汝等を誘ふ。故に円海、泰岳そのいづれもが両々相まって諸子を指導し居ることは、我等ならでは汝等には到底知ることあたはざるなり。
されどその両者の働きの力の、やがては汝等諸子をして何日かは知らず導き上ぐることは、火を賭るよりも明白なり。されど彼等の蒔きたる種子は芽を出し葉を繁らする迄は果実は結ばざるべし。中には双葉も出さずして、空しく枯死せしめる人達も多々あることは我等はよく知る。たとへ一人にもあれ、葉を繁らせ果実を結ぶ人あらば、其にて彼等は満足することならん。無言詞のはたらきが有言詞に化せられると云ふことは、即ち無言詞は種子にして、有言詞は芽を出したる姿なりと思ひて、彼等の教へを徒に聞きのがすことなく、感謝の心を以て聞き居らばその感謝の心掛けが肥料となりて、芽を出し枝葉を繁らすに至るは当然にして、疑ふ余地はあらざるなり。わけて泰岳の言葉は幼児の其如く語り居れど、その奥にひそみ居る無言詞の力は筆舌の及ぶべきにもあらざるなり。彼の蒔きたる種子は枯死することなかるべし。何となれば彼は気光素の法を用いて導き居るによってなり。円海は汝等諸子に理解し易く語り居れど、是は光気素の導きなるによって中には消滅するもあり、又芽を出すことのあるは即ち光気素の指導なりと思ひて、彼等両者の教へを比較して味はひ聞きて、両者に対しては感謝の心もて、一句一言たりとも有難しと云ふ思ひにて聞き居らば、彼等の言葉の意味が判明せずとも、やがては認知し完全にさとることを得るは必然にして、唯々中途挫折せざるやぅ彼等のもとに来るべし。然して彼等の前にては座睡なして聞くも差支へなし。唯聞き居らば其にてよし。無言詞なるが故に、何日かは芽を出す時節到来せん。

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