覚者慈音256

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                         NO204
大霊界入門記   前編                 
第三   ジョウ完成門  (仮称) 又は組織門 成就門   (仮称)                                               その11
                      教主寛大講述


 此間(八月二五日こだま会にて)泰岳が餓死に瀕したる二人の者の一個の握飯について話をなしたるに対して、こだま会の人達は深く考へず聞きのがしたりと思ふなり。此話は未知日記にも記されあるものにて実に修養修業する者の最も大切なる例話なり。(未知日記を参照せよ)すべて人間は話の中に含まれあるものを取り入れんとせず、表面の言句に耳を籍すのみにては修養修業は進まざるなり。さりながら人の話を聞く時、表面の言葉をそのまま受け入るる場合もあり、又その言葉の奥にひそみ居る何ものかを聞きとりて参考資料となすの必要もあり、是等はその時々に応じて臨機応変ならざるべからず。故に何事に限らず常住坐臥注意をせざれば、大切なることを知るあたはざること多し。汝等衆人は常に油断して注意に欠くること多し。故に油断は禁物なり。されど余りに心を働かせて無意義の点に迄心胆を砕き居らば、肉体の障害によって病苦を伴ふことも屡々見受けらる。是等は加減塩梅して修養修業の道をおろそかにせざれば其にてよし。訳もなき事に深入りして身を過つことなきやぅ用心肝要なり。すべて物事には程度あり。是を塩梅加減することは是又難しき事にて、其には智慧の働かせかたの大切なることは云ふ迄もなし。心せざるべからず。聊か横道に這入りたる感あり。されど是等は無言詞と有言詞の区を明らめて、其によって物事を解釈し、其によって塩梅加減することに尽力せば、自ずと無言詞の働きが強くなりて、軈ては大霊界の声も聞ゆる至らん。汝等衆人は天界を見聞したし思ふ心は唯好奇心よりの考へならば其は到底望まれざることなり。
 肉体の眼耳に囚はれ居る間は、よしや大霊界に来るとも何ものをも見聞するあたはざるなり。
 


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