覚者慈音255


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                         NO203
大霊界入門記   前編                 
第三   ジョウ完成門  (仮称) 又は組織門 成就門   (仮称)                                               その10
                      教主寛大講述


 神の世界と汝等の世界と区分して考ふる時は表裏の関係となること多し。大霊界と汝等諸子の世界とのへだたりは即ち往復の歩みの如し。汝等諸子は駕籠に乗る人を尊べど、大霊界は是を卑む。限度ある汝等の世界なるによって上れば下るの法則あれど、大霊界は斯ることはあらざるなり。働きたる上にも働きて楽みの上に楽みを重ぬれば、如何に働労をなすとも楽みより楽みとしてはてしなし。汝等衆人の世界の如く限度あるによって、頂上をきはむれば最早其にて終りとなる故に、其後は下るの他なかるべし。我等、よく聞くところ見るところなるが、頂上をきはめんとして山登りする間こそ、実は楽きなりと語り居るにてはあらざるか。登ることは困難なれど、下ることは速にしていと易しと。斯る世界に置れあるが故に楽みを苦みと思ひ、甚だしきは苦みより苦みの連続と考へ居ることは、諸子の日常生活なるべし。故に宗教者は早くさとりて日々是好日にせよとさとし居るにも不拘、衆人は其意味をすら解するあたはざる底の人多し。泰岳の如く愚昧の徒として取り扱われ居りしに不拘、彼は神を知りてすべてを神まかせになし居りしにより、人間界より如何に嘲笑さるるとも平然としてそのあなどりをその儘に受け入れて、怒り腹たてる等の誤ちを犯さず、常ににこやかに嬉々として師の教へに逆行したることなく、業務に励みてその業務を楽みとして苦みを知らざりしため、彼の行力は益々加はり果は易々と大霊界に来りしなり。彼は選魂界及び洗魂界等の場所は通りぬけて直ちに無言詞界に移されたるなり。喜びても一生悲しみても一生と云ふ諺も、汝等諸子の世界に使用され居るならん。喜ぶも一生悲しむも一生ならば、すべてを喜びに変へて過さば居ながらにして、極楽は現出なし居ると同様の関係とならん。然とは思はざるや。
 大凡地上に生をうけたるもの、すべてを楽みとして生活なし居る人は幸福なり。円海が語りしおきく婆さんの其の如し。彼女は病苦になやみ居る間をも苦痛とせず、其を楽みに変へて死したり。故に彼女は上界に安々と入ることを許されたるなり。我等にしてもし羨望の心を起すならば泰岳、おきく婆さんこそ実に羨ましき人なりと思ふならんと考ふるものなり。彼等こそ汝等諸子の修養修業の手本として学ぶべき人々なり。その泰岳がこだま会の人達を導き居ることは我等喜びに堪えず。


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