覚者慈音250

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                         NO198
大霊界入門記   前編                 
第三   ジョウ完成門  (仮称) 又は組織門 成就門   (仮称)                                               その5
                      教主寛大講述


 汝等諸子は日々の生活を営むにあたってもすべてを霊魂の教へによって是にまかせ居らば過誤は少なし。然るに世間並の世渡りをなしたしとて世間の行動のみに心ひかれ居るがため、過誤より過誤へと過誤の連続となりて或は争ひ、或は欺き他を怨み世を呪ふ如き結果を招きて、身心共に傷くことのあまりに多きは、自他の区別を心に任せ居るが故に、却って正しき交はりをなすことを得ざるなり。霊魂に一切を委ねて自他の交はりをなし居らば、世を呪ふ如き過誤を犯すこと少なし。霊魂は天界の姿を知りて無言詞を聞く力の具備あるによって、その無言詞を聞きて汝等が心に伝へて、有言詞に化せしめて導きをなし居る事に留意せざるべからず。汝等よく云ふ言葉に何れより来るか知らねど、智慧は思はぬ処より生ずと、云へる意味の言葉あるにてはあらざるか。思はぬ智慧とは無言詞より現れたる有言詞を指すならん。汲めども尽きぬ智慧とは、即ち魂が霊によって湧き出づることを、智慧と名づくるなりと我等は思ふなり。霊魂は智慧なり。霊と魂が一体となりて天界に通ず。恰も瓜の蔓其の如し。根を天界に下して延び来りたる蔓が、汝等の身心にに通じ居ると同様なれば、此理をよくよく考へてすべてを根にまかせ、根より入る来る養分を心に吸収せしめなば、其にて天界は身心に映じ来る。此理を知りたる慈音は、其の理より修養修業を重ねて今日に至りたるなり。慈音はむづかしき行法を営み居りしにあらず。若かりし頃座禅をなし或は静座をなして、精神統一を計り或は他力念仏を、或は自力題目をと行じ居たるものなりしが、是等によって行をなし居りても己の心に、何かは知らず不安を感じて彼は他に何か正しき方法のあるならんと、五〇年迷ひに迷ひたるなり。
 然してミキョウの教へを受くるに及んで、飄然覚醒是に任せ居らば必ずや目的は達せられるとの確信を得て、今日の位地即ち再童慈音の座に入ることを得たるなり。病弱なる彼なるが故に、彼は健康者ならぬものの修業には何か安全なる方法を探り求めて、是を広く病弱者に教へなば、多くの虚弱者は救はるるならんとの思ひが、却って彼を今日の位地に救ひ上げたるなり。よって身心弱きものは健康者の如く荒行をなすことあたはず。病弱者が救はれずとあらば余りに神の道はせまし。情けは人の為ならず、まわりまわって己が身を救はれたる慈音の喜びは如何あらん。察するにあまりありと我等は喜ぶ。
 世の虚弱者よ! この方法をよくよく知り得て其によって確信を得よ。然せば慈音の如く救はるるならん。霊界は遠からず。即ち汝等諸子は霊界の人なり。大霊界に再生すれば仏となる。ここに注意することあり。我等が語る仏と仏教者が語る仏とはその開きに於て大なる相違あり。我等は仏教者の教ゆる無常観を語るものにあらず。唯仏と云ふ文字を便宜上かりて示めし居るにすぎず。よって諒知せよ。

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