覚者慈音238

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO187
大霊界入門記   前編                 


第二   シュ、発育門或は幼児小児門 (仮称)                             その3
                      教主寛大講述

 


 八大門を見学したる慈音はかかるところにて住みたしと屡々語り居れど、この門は永住するところにあらずと、さとされしは何故なるかをもあわせ考ふべし。大霊界に移されて今やチの門シュの門を許されたることによって、何か大なる徳のあらはれが、汝等諸子の考へに浮ばざるや。よくよく考慮せよ。率爾に考ふること勿れ。汝等諸子の肉体全部は眼なり。或は鼻なり。口なり。耳なり。頭なり。手足なり。然るに其理を知らざれば手は手としてのはたらきに止まり、足は足としての動作に止まる。足も眼なり。手も頭なり。手も耳なりとして行ずるにあらざれば、大なる発見はなし難からん。大霊界に入らば是等の悉くが実現せられて育てらるるが故に、すべてを自由自在に行ふことを得るなり。我かく語らば諸子は云ふなり。手は手としての個性あり。足は足としての本分あり。然るに手を眼にかへ足を眼にかゆるなどは、他の分野を犯し居る結果とならざるやと審むならん。もとより手は手としての任務あり。足は足としての任務あることは語る迄もなし。されどその分野を固守するには眼とも耳ともなす程度の学徳を修めずば、本分の使命を全うすることは難し。是等は他の分野を犯したるにあらず。みな其々の任務をなさんがために全身悉くの力を知りて、其によって共に共に相互が相寄り相助くるにあらざれば、目的の達し難きことを考へざるべからず。是等はシュの門の教えへをよくよく学すべし。
 我かく語らば諸子は云ふならん。大霊界は我等の世界の如く個人主義にて生活なし居るやと。汝等諸子の個人主義は自己中心なるが故に、すべてを我身に引き入れて是を同化せしめんと計るによって、己が心のままにならざる時は彼我の戦いを惹き起す如き結果となるなり。大霊界の人類は然らず。自他の区別あらざるが故に一心同体にしてすべての事にあたる。常に自己中心とはならざるなり。かくも勝れたる組織なれば妬み怨みなども愁ひもなく、己一人手柄せんなど云ふ如き自我心、自尊心或は優越感などの考へもあらずして、すべては一様なり。大霊界は人間を度脱して更に新しき人間に生れかはりたる姿なれば、仮に是を汝等が世界の言葉に変へて仏と命名する事とせん。即ち人にあらざる人、人より勝れたる人と云ふ意味にて仏と仮称して語らんとす。よって諒せよ。既に仏となりたるもの汝等が世界の如く自ら功名手柄せんなどの考へもなく、優越感より他を虐げて己の足下に、ふみつけんなど考ふるもの一としてあらざるなり。一心同体にしてすべての事にあたる。故にその成績は顕著にして勝れたることは云ふ迄もなし。

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