覚者慈音230  未知日記講義第一二巻  大霊界  未知と既知の区別  教主寛大講義     巻の四

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO180
    未知と既知の区別          その6                                                    教主寛大 講述


 慈音は我に向ひて云ふ。 「我、三十年以前に日米戦争のある事を聞きたり。然るに其は事実となりて現はれしは、我の修業の力によるか、或は自然の備はりなりしか」と。我是に答へてあの頃の汝は、未だ修業の力乏しかりしため唯戦争が起りはせぬかと云ふ程度にして、其は汝に与へられたる具備が漸く芽を現はしたるに過ぎざりしなりと教へたり。是等も矢張り慈音には仏教と云ふ教へによって得たる一種の力なりしなり。帰するところは信仰心の現はれにして不審するに足らざるなり。故に一種の宗教と雖も正しきを択ばばその力はきはめて強し。無宗教者にも此具備あることは云ふ迄もなし。然るに無宗教者は己の智慧によって予知することを得たりと、己が智慧を誇り居る人は多し。自慢は智慧の行き止まりと云ふ比喩もあるなり。宗教者は仮に神と云ふ無形のものを造り上げて、是を衆人に結びつけ其によって導きをなし居れど、宗教者の多くは神を知らざるもの多し。我等は神を知りて神を語る故に我等は宗教者にはあらじと語り居るなり。我等は神を勝手気儘に作り上げて、宗教者の如く導かんとする方便者にあらず。無言詞を以て諸子に神を知らしめんとなし居るは、是神の力をかりて天界の姿そのままを諸子に伝へ居るにすぎざるなり。ここに於て我等と宗教者との相違は隔りはあるなり。所謂相似て等しからずと知るべし。
 「眼に見えぬ神の心にかなふこそ、人の心のまことなりけり」と云ふ短歌あり。是を作りたる人こそ真の神を知りたる人ならん。真の神を知らずして斯る言葉が口にせらるるものにあらず。是等は尊し。又よくよく味ひて深く深く深く修業せざるべからず。所謂無言詞を聞きて有言詞の最もすぐれたる声に変へたる人なるによってなり。天に口なし人を以て云はしむと云ふ言葉の如く、この声を発するは君子なるが故なり。神にあらず。我も人なり。神にあらず。唯階を異になし居るにすぎざるなり。
 修養修業の徳によって名誉も必要なく、己に与へられたる生命すら必要なきに迄化せられたる真の人にあらざれば世を治むる事難し。汝等諸子の世界に斯る人の幾何ありや。余事は兎に角無言詞の行終らば此処に初めて大霊界の門に入ることを許さるるなり。一度大霊界の門をくぐれば最早名誉も財宝も生命もすべては神に返上して、己自らには何等の必要も感ぜざるなり。然して赤裸々とならばその時はじめて真の自由は得らるるなり。是自然に順応して自然に帰ればかくも自由自在の境涯に移されて安楽となる。この境地に至らばすべてを我ものとして取り扱ふことを得るによって自他の区別はあらざるなり。自を思ひ他を思ふ間は二心にして一心にはあらず。二心なるが故に彼我の区別をなして迷ふなり。一心とならば迷ふことはあらざるべし。次ぎに項を変へて天界の姿即ち大霊界を語りて参考とせん。兎に角希望を失ふことなかれ。             

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