父祖の足跡16  花月楼のこと

僕が所有している屛風の画像



花月楼二階の客間
 僕が二十二歳の頃、初めて花月楼という料亭に呼ばれて宴席の末席に座らしてもらったことがあった。酒は当時は全然飲めなかった。酒宴で芸者さんを見たのもまた初めてだった。芸子衆が何人か居て、多くの人と談笑したり、酒を注いだりしていた。宴たけなわになると年増の芸者が三味線を弾き、若く美しい芸者が一人扇を持って舞った。その時はなんて綺麗な人なんだろうと僕は真底心の底から思った。誰に聞いたか忘れたがその舞子さんの名前は皆に「ひかり姐さん」と呼ばれていた。その時から今日まで花月楼で飲む機会は幾度もあった。地元の壮年会の集まりとか、繊維雑貨組合の例会、役員会、総会など数えきれないほどこの花月楼に通った。だがその「ひかり姉さん」の顔をその時以降一度も拝顔したことはなかった。僕より一つ年下で昔、芸者をやっていた人がいるから、それ以降のひかりさんの消息を急に

<ひかり姐さんは丁度上の絵のような綺麗な人だった>


聞いてみたくなった。生きておられればもうすでに齢八十の坂を越えておられることだろう。きっと幼少時から晩年に至るまで波乱に満ちた生涯だったに違いない・・・・


 昭和四十年頃、市内の繊維業を営む者およそ三十軒ほどが一つの組織を作り上げた。それは保育園、幼稚園、小学、中学、高校とすべての学生衣料を販売する組合だ。設立当初から父はそれに参画していた。およそ七年間ほどそこの副組合長を務めていた。平成元年から私が父に代わり其処の組合員になった。組合が組織され三十五周年を迎えるにあたり、それを記念して組合のあゆみを纏めることを私は例会で提案した。そして全員の了承を得て先ずは一歩踏み出した。
一か月もすると原稿も段々と集まって来た。次に表紙はどうしたものかと考える。あれでもなし、これでもなしと更に考へに耽る。すると一瞬閃く。そうだ。あの花月楼の枝垂桜(しだれざくら)がいい。なぜなら組合とあの料亭との縁(えにし)は深い。組合は新年会を始め、役員会も何十年にも渉ってここを使ってきた。組合とは切っても切れない深い縁があるからだ。きっと古老の方は喜んで下さるだろう。
 私は女将に、今回発行する本の表紙に、この桜を使わせて頂きたい主旨を述べる。すると彼女は「ようござんす。いますぐ写真を用意します」と云ってすぐさま写真を取りに行かれた。いろんな角度からの写真が百枚位あったと思う。女将は今も毎年欠かさず写真が撮られているそうな。桜の季節だけでなく、四季折々の櫻の木の写真もあった。
「まだまだあるんだけど、何処かにしまっておいてチョットいまは解からないな」と仰る。彼女は丁度自分の愛娘の写真を眺めるように眼を細めて見入る。私は云ふ「貴女ほど櫻を愛する人も当地では珍しいですね。まるで女櫻守のようだ。夜な夜な桜の精が出てきて、女将さんに話しかけるじゃありませんか」「あら、櫻の精って居るの。怖いわ」
「居ますとも、ものの本によれば、それは素敵な美女らしいですよ。それを長年続けていると、やがて櫻の木と会話ができるようになるそうですよ」「あら、本当、一遍やってみようかしら」
 私は並べられた写真の中から、適当なものを十五枚程お借りしてきた。私は三十分近く玄関に座り、この料亭と櫻にまつわる話を聞いた。女将曰く、「この建物も人間様の年齢(とし)でいうと、卒寿をとうに越してしまいました。丁度人間で云ふ還暦にあたります頃に、角吉楼から花月楼と名称を変えました。古い時代の事は記憶も今は朧気ですが、戦時中は軍需工場の寮として利用されました。その為もあって、この花月楼の身体も相当傷つき痛みました。勝山の機屋さんが華やかなりし頃の、古い時代時代の赤茶けた写真を見ますと、このただずまいは頑固な位に手直しもせず、今日(こんにち)もそのまんまで懐かしいやら、恥ずかしいやら、それは丁度、人間様の皺、染みみたいなものだと思います。私の身体もあちこちに随分とガタも出てきましてね。言いたくないですが年齢ですなア。でも、前庭にあるご存じのあの枝垂桜は、この建物より悠に樹齢を重ねて、白寿はとっくに越しています。花見時期には、それはそれは艶やかに装おうさまは、私の自慢の種なんですよ。よくもこの年齢迄、彼女は風雪に耐えてよく頑張って来たものとしみじみ懐かしく、いとおしく思います。今も私は彼女の健気さに精一杯拍手してやりたい気持ちでおりましてね。でも世間では、きっと彼女の事を姥桜と呼んでいるんでしょう。四月初めの、あの匂うが如く咲き誇る絢爛の美は、とても言葉では云ひ表せません。あれを見ると、彼女はまだまだ妙齢の乙女のそれに見えます。だって岐阜の薄墨桜は確か千年以上も経って居るのでしょう。それと比べたらうちの桜木なんかはまだまだ若いもんですよ。

続いて女将は云ふ。
 「不思議ですね、お天道様はこんな樹木にさへも素晴らしい天然の美を与えられて居られる。ましてや、樹木と違って人間にはそれ以上の恩恵、尊きものが与えられているんじやありませんか。勿論、それは肉体的のものじゃなくて、精神的な美だと思いますが、例えば、お釈迦様、キリスト様は云うに及ばず、古来からの聖者、賢者と云われたすべての人は皆、芳香を放つ素晴らしき大輪の花だったんじゃありませんか。あの人達の残した言葉は、何千年ものあいだ人々を教へ導き、これからも永劫、地球がある限りその人達の存在を忘れる事がない。いわばこれこそが地球が生んだ最高の美の結晶と云っていいんでしょうね。私も今からではもう遅いかもしれないけど、この桜に恥じないように頑張って、胸の中に小さな一輪の花を咲かす努力をしたいと思っているんですよ。貴方、笑っちゃいけませんよ。貴方にだって、磨けばその可能性があるんだから。ところで昔の組合長だった、中村さんとか、塩見さんはお元気で居られますか。あれから随分とお目にかかって居りませんが。そうそうつい最近中山さんとか村上さんにもお目にかかりましたが、なにかしらご両人とも歩きにくそうにして居られました。思へば今から二十年前、皆さんがよくお出で下さった頃が、いわばこの花月楼の一番の花の時代だったんですね。今日は少しセンチメンタルな気分になって、昔のことを色々と思い出してしまいました。とんだお喋りをしてしまって、ごめんなさいね。それはそうと、どうか皆さんのいい御本が出来るといいですね。組合の皆さんにも、女将が宜しくと云っていたことをどうかお伝え下さい」と
私は写真を借りた礼を言ひ、「本が出来たら女将にも是非とも読んで頂きましょう」そして今日お訪ねしたことを、文章に纏めることを約してその場を辞去した。

追記
今日、勝山市立図書館で調べていたら、故丸屋 仁志さんの「勝山花街繁盛記」という本を見つけた。そこに五十名の芸者さんの名前が挙げられていた。昭和四十年代にはおよそ五十名の芸者さんがいて、ひかり姐さんの名前も見つけた。ひかりではなく、光であった。そこには君龍さんや福弥さんなどの懐かしい名前があった。きっと市内の年配の読者の方は懐かしく思われる違いない。

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