父祖の足跡15 父が料亭から譲り受けた蔵の中にあるもの③

僕が持っている屛風の絵 孔雀かな


美濃屋さんの親戚の家、松屋味噌醬油店


 我家と現在の美濃屋さんとの距離は歩いて僅か十歩のところにある。ほんとに字義通りのご近所さんだ。美濃屋のお父さんである良平さんは十七代目にあたる。もう亡くなって十年の歳月が流れた。その方は地方では名家の方ではあるにも拘らず、少しも偉ぶった尊大なところはなく、寡黙なお人柄方だった。晩年は呼吸がしにくかったと見え、酸素ボンベを小さな台車に載せて引っ張って歩いて居られた。いつも店先では新聞か本などを読んで居て、店先の花々に水をやつて居られたことを覚えている。勝山の明治の歴史を顧みるに、美濃屋一族の残した松屋文書、美濃屋文書がなかったなら本当に殺伐とした空疎なものになったろうな。勝山の歴史に大きな隙間空隙が出来て、後の郷土史家もおそらく途方に暮れたことだろう。山田雄造氏によれば松屋文書はなんと四千点にも及ぶとのことである。その美濃屋の奥様である富恵さんは何年間かの闘病生活を送られて昨年冥府に旅立たれ、二年前には長男英一郎さんもなくなっておられる。彼の年齢は僕より二つ年下で生きて居られれば当年七十二歳になっておられた。彼は慶応義塾大学を出られた俊才で経済を数式化する勉強をされておられた。そんな話を生前中、彼から幾度か聞かされたのですが、当方はチンプンカンプンの状態でした。彼は真に学求肌の人でしたが商才には残念ながら恵まれておられぬ様でした。しかし頭脳は至極明晰な人でした。僕が思うに彼の祖先達があまりに傑出し過ぎていて、ひょっとして、彼は祖先達に対してコンプレックスを持っていたのかもしれない。僕は彼に何年か前に「あんたの家の家系は類い稀な一族だ。あんたの手で己の親族達の英霊を慰める意味でもあんた自身による美濃屋一族の歴史、新たなる「美濃屋文書」をいまからでも残さないといけないのでないのか」と問いかけたことがあった。彼は答えて曰く、「今は僕も準備中でそろそろ纏めんといかんなと思ってはいるんだが・・・・・・」と答えた。そうこうしているうちに彼はあっという間に身罷ってしまった。余りにも早すぎる死だった。その日、僕はそこから二十メートル程下方にある美濃屋さんの親族である松屋さんを訪ねた。すると若嫁さんが出てこられた。彼女曰く「もう無理ですわ。最近は母を連れて毎日施設に通っているけど、今では私の事もよう解らぬようになってしもうて。とても応対するのはいまはもう無理な状態です・・・・・・」とのことだった。嗚呼、もつと早くに故人達が元気なうちにやっておくべきだった。いまは悔恨することしきり。そこで松屋さんに故英一郎さんの弟さんの電話番号を聞き、早速彼に電話してみた。話に依れば、昨年彼は脳梗塞にやられ、車の運転も覚束なく、運転は医者からもきつく止められているとの事。今は現在金沢に住んでいて、もう暫くしたらそちらにお邪魔するかもしれないとの返答を得た。
 昔、僕の母親からこの美濃屋さんのことを聞いたことがあった。母とこの十七代目の良平さんとは同じ年で、尋常小学校時代は彼はクラスで一番の暴れん坊であったという。晩年の彼の姿からはとても想像しがたいことだった。又彼の父である十六代目当主又太郎という人は毎朝、平泉寺の山中を訪ね歩き、かっての栄光を取り戻すべく一日中金鉱脈を探しておられたそうだ。おそらく文字通り、それを発掘して一山当てて店の再興を望まれておられたのかも知れない。事実、勝山の古文書には平泉寺にはかって金が埋蔵されていた山があって、当時は金が発掘されていたことが記されていた。しかし今は閉山になっている。母は幼児の頃毎朝、美濃屋のお爺ちゃんが身支度をして山へ出かける姿を見ていたのだった。それはもう九十年も前の事だ。 
 明治時代、美濃屋の兄弟四人衆が繊維織物産業に着眼し、着手することによって、勝山にはその産業は大きく根を張り、大きく育ち、それが後に芽を吹き、軈て市中に五っもの大きな繊維会社を作っていった。そしてそれらは多くの雇用を広げて市民の生活を助けた。勝山市中でかって繊維関連に携わっていない家庭を探すのは極めて至難。その産業の始まり、その淵源なるものはすべてこの美濃屋の先人達の力によるものだつた。山田氏の書によってやがて市民に美濃屋一族の功績が広く知れ渡ることを僕は祈念している。まるで山田氏が故英一郎氏の果たせなかった夢の一部を相伝継承しているかのようだ。

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