父祖の足跡14 父がある料亭から譲り受けた蔵について②

 上記の墨絵はその十二点ある絵の一つです


 その古い屛風の中に六曲一双のものがあり、この二つの屛風の中には十二点の絵が納められている。表々紙には海北友松(かいほうゆうしょう)の名前が記されていた。僕は以前父にうみきたともまつと発音して嗤われたことがあった。父は水墨画をたしなみ、よく色んな人の画集などをいつも眺めていた。そして自身もまた水墨画を描いて展覧会にはよく出品もしていた。僕は最近この屛風絵のことが気になって勝山の市立図書館に足を運び、図書館司書の方に勝山市の明治の頃の豪商の事が書かれている書籍はないか尋ねた。するとその方はすぐさま本を幾冊か持って来られた。本の名前は「勝山の歴史」と「勝山製糸会社に命をかけた男たち」であった。なんとその本の著者は僕の友人で、高校の頃から一緒に勉強した仲だった。大学受験の際には二人で京都に連泊し、同部屋に泊まって受験に挑んだものだった。以来大学卒業後、彼は県内の高校の日本史の教師を定年まで勤めあげ、今は当市の教育委員会の編纂室に勤務している。毎月出される市の広報にはいまも勝山の古き歴史の足跡を執筆していた。又勝山市民からの要望があった時には、それに快諾し講演会などを時たま開催し、町を散策しながら、その由緒由縁を講釈していることを知っていた。僕は彼に今迄何冊の本を書き上げたかを聞くと、彼は即座に七冊刊行したことを僕に云った。僕は彼に親父が集めた蒐集品のことを手短に伝えた。彼はその墨絵と判読し難いくずし文字の屏風の幾つかをカメラに収めた。
 父が料亭「清風」から買い上げた蔵はかっては美濃屋という勝山の豪商の所有物であり、勝山の製糸会社を立ち上げた本家筋の方であった。この山田氏の書いた美濃屋の系図を見ると六代目平三郎(文化四年~慶応三年)とあり、その方の子供達四人が尽力してこの勝山に繊維産業を興す契機となつたと書かれている。そのため美濃屋さんの出自は尾張の国で屋号も美濃屋と名乗り、当市では豪商といわれていた。個人の資産をかなりつぎ込んだことを彼は僕に話した。当時美濃屋呉服店は当地では抜きんでた別格の存在であつたが、雇っていた丁稚の方々が次々と独立して、それぞれ自分の店舗を出されたために次第に本家の店は疲弊衰退を余儀なくされて、やがて没落していったとその経緯を話した。僕の母親も常々「人生というものは貧乏三代続かず、金持ち三代続かず・・・・」と昔からよく云っていたもんだ。人生の有為転変はこれすべて世の習いか‥‥

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