父祖の足跡 13  父がある料亭を譲り受けた話①


 父は今から五十年前に町の料亭を譲り受けた。その店の名前は清風という店だった。昭和三十年頃、この町で大相撲の夏巡業があつて多くの相撲取りがそこの店の二階で賑やかな宴会が執り行われたことがあった。横綱の栃錦をはじめ大関陣から関脇、小結などの錚々たるメンバーが数多く参集し、その大男達が一堂に会して、盛大な大宴会が開催されたのだ。当然その時は町の名士達も沢山応対接待のために数多く集まったに違いない。その二階の宴会場は襖をはずせば十二畳の部屋が六部屋あつて、全部で七十二畳の大広間になる。町の郷土史家の本にその二階で横綱が四股を踏んだという挿話が書かれていた一文があつて昔見たことがあつた。
父はその料亭を買った時、同時にその料亭の所有物で、江戸時代から続く古い蔵と土地をも併せ買い取った。この蔵は明治二十九年の四月十三日の夜九時頃、当市で最大の大火があって戸数千二百軒に及ぶ町の家々がすべて灰燼に帰し、焦土と化する大事件があった。にも拘わらずその蔵は土蔵造りであったがために焼けずに残った。父はその料亭主から金屏風、銀屏風それぞれ六尺六曲の屛風をも買った。そのほかにも幾つかの古い屛風や骨董品などがあったことを覚えている。町の歴史書を見ると、次のことが書き記されている。

「この日は朝から乾燥した辰巳風が吹いていた。午後になり、町民は不吉な予感にかられ、誰いうとなく、早めに晩飯をすませ、身支度などをはじめるものさえあった。このような時、火の見やぐらの鐘が鳴り始めたという。悪いことに火元は、町の南端にあった立石町であったので、みるみるうちに市街中心部に燃え広がり郡町、袋田町、上、中町、下後町、長淵町が火の海となった。
当時は民家やお寺が多かった。消防組は手のつけようもなく、たちまちポンプその他一切の機能を失った。人々は仏壇を背負い、手当たり次第の家材をもって山手に逃れ、または九頭竜河原に避難し、火の粉を避けようとした。夜半に入っても火勢は衰えず、沢町、富田を焼き、さらに隣接の村岡村滝波、荒土村滝波、新保町へも飛び火してその大半は焦土と化した。被害は町の八割にあたり、この中に警察署、郵便局、その他銀行二店、寺院十八が含まれ、死者五人、重傷者三十二人、その惨状は目をおおうばかりであった」とある。

×

非ログインユーザーとして返信する