覚者慈音223


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO173
   清浄無垢の人間とは如何なるものか  その3
                                                 教主寛大 講述


 汝等諸子の心がけ次第にて明光のもとに永久日を送ると、又其と反対に暗光のもとに永久暮らすとの相違あるのみ。されどその開きは余りに広し。この理を曲解なし居るならん。諸子の世界の如く昼夜の区別あるところより、暗光とは夜を聯想し、明光とは昼を聯想する時は、我等の意味を正しくくみ取ることあたはざるべし。例へば我等は宇宙の人類に対し、無言詞を以て導き居るに不拘、是を聴きとり得る人は算ふるの程度よりあらざるなり。無言詞の聞えざるは暗光にして聞ゆるは明光なり。慈声の如く時には聞えざる如きは明と暗とが交々輝きつっあるによってなり。所謂時には明となり、時には暗となる。諸子は見ると云ひ聞くと云ふことに対して、光を聯想し音を聯想するが故に、光明を曲解なし居るなり。聞えざるものを聞く力見えざるものを見る力備はらば、即ち光明の世界を見聞する具備を有する正しき人間となるなり。汝等の世界の如く太陽は輝きて光を放てど、暗より暗の世界にて暮し居るにてはあらざるか。昼夜共に暗き世渡りをなし居るにてはあらざるか。太陽輝きて明るく照らせど、汝等諸子は暗の道を歩み居る姿こそ我等は哀れと思ふなり。恰も人なき部室に燈燭輝きおると同様の姿にてはあらざるか。月日ありて照らせど甲斐なく、諸子は冥道を歩みて地をもぐる土竜の如き有様にては、何時かは光明の世界はあらはるべき。諸子は悲しとは思はざるや。前面に足をむけて進み居ると思ふことが、却って後方に退き居る如き生活を営み居りては、天界の姿は到底認識すること得難し。早くめざめんことを望む。
 其は別として絶対なるが故に明も変らず、暗も変らざるなり。是あるが故に眼開らかば明らかとなり閉づれば暗黒となる。この理は諸子には到底理解すること得がたからん。先づ修養修業を重ねてその徳によって求めずば得難し。千言万句を以てすとも理解せずば無用の虚説となる。人間の肉体は純潔にあらず。又永久不変にもあらざるなり。故に心は汚れるなり。心汚るるが故に魂も是に染りて、無垢とはならざるなり。心を洗ひ清めて清くせば従って魂も清くなるなり。純潔なるものは魂を措いて他になしと云ふも過言にあらず。人根即ち魂は清浄無垢なるに不拘、肉体と魂とのつながりを有する心は、或は汚れ或は美はしくなることは誰もよく知るところならん。恰も小脳と大脳の其の如し。小脳に故障を生ずれば大脳も従って犯さるると同様の関係と見なすもよし。されば正しき方向に頭をはたらかせて、脳のはたらきを正しき方向に向はしむねば、心は清くなり行くは当然なり。されど肉体に囚はれて、勝手気儘の行動をなし居らば、脳に傷き心の汚るるは是又当然なるべし。
 大自然は直き魂を作らんがために、肉体を地上におきて是によって完全なる結実を得させんとなし居ることは、今迄語り来りたる説によって諸子は既に承知なし居ることならん。然るに我等が語るところを諒として受け入れ居りながら我等の説には従はず、肉体にのみ重きをおくは未だ心の底より明らかにめざめ居らざるが故なり。即ち諸子は肉体の声のみ聞きて霊魂の声を聞かんとせず、唯その時々の調子に囚はれて其に思ひを致し、霊魂を忘却なし居るによって、進むべき足も従ってにぶりがちとなり、行くべき所の距離を縮むることあたはざるなり。俗に云ふ道草をしながら歩み居るによってならん。兎に角清き心の布を以て磨くにあらざれば明鏡は得られざるべし。天界は遠からず近からずと語り居る意味は、是等の説によって諒解することを得たらんと思ふなり。五大鏡の原理はここにあるなり。




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