覚者慈音221

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO172
   清浄無垢の人間とは如何なるものか  その2
                                                 教主寛大 講述


 泰岳が七月二十一日(二六年)のこだま会に於て、九流界の嬰児を伴ひ行きて嬰児の言葉を、次のこだま会にて語らんと約して去りたり。その嬰児の語りたる言葉のうちに、こだま会の人達は何故嘘、偽りをたくらみ居るやと泰岳に質問なしたり。我、是を聞きて九流界の嬰児にすらこだま会の人類が嘘虚偽を企み居ることを、看破せらるるとは何と云ふ無智の人達よと慨嘆に耐えざるなり。諸子はあまりに現実に囚はれて霊魂を汚し居るが故に、九流界の嬰児に迄醜しとの感じを与へたることの点より、反省してよくよく工夫せざるべからず。清浄無垢の霊魂に化せしめずば、生きる生活にあらずして死する生活となるは、異論の余地なかるべし。霊魂はもとより純潔にして汚れなし。是を汚すものは何ぞやと、ここに一段の方法を考へて修養の度を高めずば、現在医学者の云ふ如くすべてを放棄する他なかるべし。すべてを放棄して影を止めずと思へど、残るものは残るなり。九流界の嬰児より汚なしと思はるる如き霊魂を残しなば迷ふは当然ならん。九流界の嬰児の話は次のこだま会に於て泰岳がくはしく語るならん。よって我はこの話は省略す。
 汝等諸子は実在的に囚はれて空を、粗略になし居るが故に、すべてを肉体にまかせ実在より実在へと囚はれ居るため、空の一大事を知ることあたはずして空しき光陰を過し居るなり。空を主して実を従はしむれば、却って希望の楽みを全うすることを得るに不拘、すべてを反対の立場より生活なしおるが故に、望を果すことを得ずして、大切なる霊魂を汚し居るなり。霊魂明らかなれば心は清く現はれて身心共に安楽となる。この事柄より考察する時諸子の考へは、逆の方向に思ひを廻らし居るため、不自然の道を辿りつつあるなり。我等の語る処の自然は空より実を追ひ求むるが故に、諸子の思ひとは全く反対となり居るなり。我等の聞く処によれば医師は云ふ、病気をなおすは我等なれど、命数は我等の知る処にあらずと語り居る点より考ふるも察せらるるならん。肉体は実在なるが故に、肉体の病ひは薬石の効あれど、命数は計り知れざるが故に治癒することあたはず。されば命数を延長せしむる方法は、誰によってなさるるやを考へ見よ。汝等諸子は愚者に与ふる薬なしと語り居れど、実在より考察して脳に欠陥あらばこれを治癒せしむる法はあるなり。脳に異常なく肉体健康なるに不拘愚者もあるなり。是を何によって治癒せしむべきかを研究せば、其は修養修業の薬石を用いずば望は叶ひ難しと見るならん。今是を一段深く考ふれば、命数を延長せしむる方法は何によって得らるるや。肉体を健全になすとかの方面より養生を旨として、すべてに心がけをなし居らば、長き命数は保たるるならんとの考へも出づるならん。又生命を長くせんがためには、肉体の健康のみにてはなし遂げ難し。故に何か空なる神とか仏とか云ふ如きものによって、望を叶へしめんと祈りをなす者もあるなり。其にてよしと思ふや。神仏を頼みて肉体の長命を計るとも、汝等諸子の世界は安全ならねば何時如何なる場合に於ても、不時の災害が諸子の肉体を傷け倒すやも計られざるならん。健康法を考へて肉体を守り居るに不拘、不時の災害にて傷き倒る人の多きを見るも明らかならん。されば何れの地が安全なるか。長生を計らんがために安全なる土地を択ぶとも、果して希望通りの安全なる場所は何処にある。斯る危険なるところに居を定めて、永久不変の長生を保つことを得んや。静かに考へて肉体と霊魂の区別を明らかに推知し見ば、火にも焼れず水にも溺れざる霊魂の大切なるは論ずるの余地なからん。


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