覚者慈音220

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO171
   清浄無垢の人間とは如何なるものか  その1

                                                 教主寛大 講述
 
 母胎を離れて産みおとされたる赤子は即ち人間本然の姿なり。赤子は純潔にして穢れなく清浄無垢の霊を宿し居りて、その霊より次第に魂が養育せられ行くことは、既に未知日記に於て語りたる如くなり。魂と云ひ霊と云ふもすべては空にして、求むれど得らるるものにあらず。無きかと思へばあり。あるかと思へばなきが如き姿なるによって、其を明らかに区分することは得られざるなり。
 赤子は肉体発育によって脳も従って完全となりて肉体と共に発育なし行くことは、諸子も既に医学上より学びたる処ならん。もし汝等が脳を犯されて痴呆とならば、従来体験なしたることなどは悉く失はれて影を止めず。恰も赤子の其の如くなり行くは是又諸子の知るところならん。。是等は脳の異状によって斯る現象を呈することは云ふ迄もなし。斯る事柄より今日の学者は人間死すれば其にて終りとなる。霊魂などあるべき様なし。大切なる脳のはたらきが静止すれば其にて人類は終りとなるのみの考へは今日の学理なり。未知日記に於て語りたる如く、人死すればすべては忘却して過去の事柄など何も知らざる底に化らるることを語りをきたり。人間生存中に於て脳の病に犯さるれば、従来の事柄は忘却すると同様の姿となるによってなり。生存中にすら何事をも知らざる底に迄化せらるる事柄より、死後を想像せばすべては無となることは察せらるるならん。是等の点より考ふる時は、人間一代生存中何をなしても未来に罪悪など残る事もあらずと思ひて、一代の生存を一日も長からしめん事を計り、其間に処して安逸を貪るは人間の習性なり。是等の事柄あるによって、行者の中には一年或は一年半とか云ふ仮死の修業をなして、霊の研究を計り居るものもあるなり。脳の病に犯されてすべてを忘れたる人は、恰も赤子の其の如く何ものをも解することあたはず。言葉すら忘るるが故に苦痛を訴ふることもなし難く、又苦痛をさのみ感ぜざる底に迄なり行く人すらあるなり。是等は恰も赤子と同様の姿に迄変ぜらるるものにて ( 昨秋昭和二六年七月22日夜、円海が慈音をラジオの放送のアメリカ便りを聞かせて詳細説明を与へ居りたり ) この話はアメリカの或婦人が、高等の学問を終へて脳膜炎に犯され、医師の手によって病気は助かりたれど、すべての事柄を忘却して何も知らざる赤子の如くなり居ると云ふことを語りたるなり。医学者は唯肉体の作用のみにて霊魂の問題などは、眼中になきは学理に重点ををきあるが故なり。この婦人の如く人間も肉体を失はばこの程度に化せられることは、未知日記に於て語りたる如くなり。我等は事実を語る。されど偽りは語らざるなり。
 人間生存中我は彼に怨恨あり。死しても忘れじなど口になし居れど、肉体失はば斯るものみな忘却して影を止めざるなり。又我、汝を愛す。肉体滅後も汝に来りて汝を救はんと語りをくとも、死後は忘却なし居るが故に斯ることは影を止めざるなり。さればこそ冥土より音信するもの一人としてあらざるならん。汝生存中に善き事をなしをきたらば極楽に移さるると、宗教者は語り居れど、善事を行ひたるもの極楽より我は、極楽に来りしと報道なしたるもの一人としてあらざるべし。よく信仰者の中には、何某は天界より音信を我になして天界の様を詳細語りたりなど、伝へられ居ることは我等も耳にす。されど是等は二種の道あるなり。一つは円海泰岳の如く行じて天界に来りたるものと、何も行をせずして死したるものとの相違によりて判断することを得るなり。円海泰岳の如きは生より生へと順序を正しくして天界に来りたる者なるによって、過去の何なりしかを忘却せざるのみか、是等のすべてを応用して順路をあやまたず昇り来りたるが故に、今も尚生より生へと追ひ求めて行を励み居るが故に、是等は正しき教へをなし又正しきことを語り居るなり。故に彼等の言葉は錯覚作用にはあらざるなり。されど宗教者の教へを聞きて其を信じ、行ひをあやまたざる人の世に現はれて語るなどは、錯覚と錯覚が互に交はりて一如の境涯となりたる場合のみにて、是等は過誤多し。又偽はりもあるなり。





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