覚者慈音219  大霊界  絶対とは如何なるものか  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO170
 絶対とは如何なるものか          その13                                                   教主寛大 講述


 病人が医師を信じて飲む薬は効果顕著なるも無言詞のはたらきによる。ものを信ずる力強きは、無言詞のはたらき強きが故なり。疑ふと云ふも亦無言詞の力なり。無言詞は霊気なるが故に、善悪邪正悉くに通ず。無言詞とは純正なるものによって朱に交はれば赤くなり、墨に交らば黒くなる。されど無言詞は純なるが故に一旦染るとも根底より染り居るにあらずして、最後はもとの姿にかへる。是霊気の力なりと知るべし。悪に染まれば悪となり、善に染まれば善となる。自由自在の境地とは即ち無言詞界なり。この理より更に感ぜらるることは、一切諸々のものをすてて無言詞本来の姿に立ち返へらずば、大霊界へ運ばるる事の難きを知るならん。ものに染りものに囚はるる間は、或は明となり或は暗となる。明暗の区別なき程度に迄光明の輝きを増さざれば、完全無欠の無言詞に立ち返へりたりとは云ひ難からん。行ずるものは、彼に囚はれ是に囚はれ居る間は、無言詞は其々に同化してはたらき居るが故に、本来の姿にかへることをなさず。唯其事柄に従って交はりを重ね居るによって、すべてのものを思ひ明らめて本然の姿に立ち返らしめずば、無言詞界は現出せざるなり。無言詞界を現出して更に大霊界に運ばるれば、最早善悪邪正の区別なく純潔なる姿なるによって、大霊界に入ることを許さるるなり。大霊界に入りたらば最早何等の障碍もなく、真の極楽となること疑ひなし。信ずるというふも疑ふと云ふもみな無言詞の力なり。
 信ずるは進み疑ふは退く。退かば善悪邪正の交はりをなさざるべからず。進まば善悪邪正悉くは退去して本来の姿に化せらるるの道理を考へて、諸子は進むか退くかの何れを択ぶも其は随意なり。されど我等は進まんことを望みて諸子を誘ひ居るにすぎず。我等に従ふものは進べし。我等に耳を籍さざるものは退くも可なり。決して止むるものにあらず。自在論に於てミキョウが、来るものは導け。去るものは追ふべからずと語りしは是なり。されば心を清くし魂を清めて然して霊気に和せしむれば、ここにはじめて本来の姿となる。是を完全無欠の稔りと云ふなり。魂を稔らせよと云ふことは、魂をきよめて本然の姿即ち清浄無垢に帰せしめよとの、意味なりと解するも可ならん。慈悲の心慈愛の心と云ふも、純真をあらはしたる言葉なり。心清きは魂の純なるが故なり。心魂一如の姿となりて勝れたる稔りに化せしむれば、霊気のはたらき強きが故に光明の力も従って加はる。光明の力加はらば全宇宙を通じてあます処なく照らすことを得るならん。

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