覚者慈音215

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO166
 絶対とは如何なるものか          その9                                                    教主寛大 講述


 兎に角霊を知りて霊眼を開らかしむるにあらざれば、我等の説を聞きても実を実として受け入るること難し。修養修業と云ふは霊魂一体の方向に向ひて、行動をなすにあらざれば、目的は達し難し。霊眼或は魂眼を開く力備はらば、我等の説は虚か実かの何れかを理解することを得るならん。其迄は如何に語るとも唯机上の空論として取り扱はるる他なし。この事は我等よく知る。されど諸子を導くためには如何に思はるるとも、実を語らずば望は達することあたはず。故にすべてのことを知りながら認め居るなり。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花の如き説にあらず。幽霊が尾花ならば其は虚なり。実にあらず。宗教者は是を語ると雖も我等は語らざるなり。何となれば全宇宙の法則を知るによって斯る愚をなすものにあらず。諸子の世界の宗教には種々様々の種子仕掛を設けて、虚なることを実の如く思はしめて、惑はす如き徒輩少なからずあるなり。斯るものと我等の説を混同して聞くことを止めよ。我等は空を語れど虚を語ることはなさざるなり。是は確言して憚らず。諸子に伝へをくべし。迷ふこと勿れ。疑ふこと勿れと誡めをくものなり。汝等諸子の世界には新興宗教とか称して、実に如何はしき教へをなすものあまりに多し。虚を実に変へしめんがために、偽はり多くして、其偽はりの方向に信を向けさしむる如きは、何と云ふ罪悪ぞ。諸子は慎みて斯る輩の教へに耳を傾くることをなす勿れ。
 宗教者の虚を語るは世を治めんがために、恐怖心を起さしめて其によって不善を抑圧して人類を安からしめんとの考へより、時には空を語り時には虚を語る如き方便の導きをなし居れど、我等は左にあらず。諸子の世界を安からしめんために、恐怖心を起さしめて、其によりて不善を抑圧せんとするが如き宗教者の考へとは、全く其趣きを異にするものなり。我等はとにかく諸子を天界に導く役目を架せられ居るによって、其任務のために導きをなし居るなり。故に我等は宗教者にあらずと語り居るなり。此書を読む者は其心して会得せよ。天界は近からず、遠からず、眼前にあるなり。今学びて直ちに天界に上昇することも得らるる道理もあれど、其を理解する力なき諸子にはいささか労苦して、修養修業を励まずば目的は達し難し。我今曖昧なる言葉を用いたり。此まぎらはしき言葉をよく咀嚼玩味せよ。
 総じて人間は一つの希望を抱きて其物に熱中努力なし居る間こそ楽しみはあるなり。されば希望より希望へとはてしなく事にあたって邁進なし居らば、其が真実の楽しみにして希望が充たされたる時は却って楽しみの度うすくなるものなり。神の世界の有無に不拘彼是と聯層して一路希望をすてず邁進なし居らば、其間こそ真の楽みと幸福に満たされて愉快の日を送ることを得るならん。故に希望は棄つること勿れ。汝等の世界には訳もなきことに熱中して、第三者より嘲笑の眼をむけられ居るに不拘、当人は平気にてそのものに囚はれ居る如きことを見るならん。其が当人取りては唯一の楽みとして忍苦に耐え居ることは、彼にとりては最大の幸福の日を送り居るなり。所謂苦みを楽み居るものにて、第三者より見る時は彼の如き微々たる事に熱中する隙あらば、其を今少し有益なるものに変へては如何と思はるることすら屡々あるに不拘、当人は其によって何かのものを発見せんとなし居ることは云ふ迄もなからん。彼もし望を達すれば其が大なる有益の発見と、世間より称賛せらるる結果となることも尠なからずあるなり。世間より狂人扱ひせられ居りしものが、後に至って大発見者として崇拝せられるもみな、苦みを楽みに変へてなし遂げたる結果に他ならず。ものに凝り固り居る人を第三者より見る時は、狂人の如く見ゆるも無理ならぬことなり。斯る底迄努力せずば目的は達し難からん。
 慈音慈声は世間より見る時は、先づ狂人として取り扱はるるやも計られざるなり。されど彼等は今は止むに止まれぬ境涯に押し込められて、ぬきさしならぬ立場となり居るなり。行くべきか、帰るべきかすら知らずして、唯夢中に使命を果たし居るにすぎざるなり。夢中の人とは彼等を指すならん。第三者より見る時は斯くの如し。


×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。