覚者慈音213 大霊界  絶対とは如何なるものか  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO165
 絶対とは如何なるものか          その8                                                    教主寛大 講述


 行者の中の多くは己の修養の度高まるに従ひ傲慢の心を起し、下界にかへりて愚民を惑はして己の権威を振舞はんとするが如き徒輩が余りに多くあるため、昇天するものは稀なり。行者にありても斯くの如し。まして在家に於て修養修業するものの困難なるは無理ならぬことなれど、正しき心を失はずば山間幽谷に入りて特殊の行をなすにも及ばざるなり。行者の中に行ひ居る仙術と云へる方法は、即ち無言詞を応用して用い居る一種の術にして、別段不思議なる技をなし居るにあらず。仙術とは大自然の法則を云ふなり。大自然の法則即ち仙術なり。理に合はずば通ずるものにあらず。通ぜざるは理に合はざるが故なり。
 例へば激薬を入れたる瓶を見て、是は水なりと思ひて手を触るるならば火傷す。蛍を見て火なりと思ひ、手を触るも火傷せざるべし。火に焼けず水に溺れざる方法などは、皆是等の原理より生じたるあらはれにて、もとを洗へば訳もなきものなり。恰も一種の奇術の如し。何ぞ不審するに足らんや。我等の教ゆる火にも焼れず、水にも溺れざるものとは何ぞや。即ち汝の魂なるべし。汝等の肉体は火に焼れ水に溺る。されど汝の魂は斯る憂なし。魂の力完全ならば、如何なる事にあたりても決して傷くものにあらず。大切なるものは魂なるべし。汝の肉体は如何に強くとも水火の難ははまぬがれず。弱はしと思ふ魂は水火の力にては如何ともなし難かるべし。宗教者の語るところと我等が語るところは相似て等しからず。宗教者はさとれば生命も惜からじ、肉体何ぞものの数ならんやと教へ居れど、我等の説は然らず。肉体ありての魂なり。魂ありての肉体なり。両々相持って是を育成せずば完全なる稔りは得難し。
 法の為ならば万人たりとも我行かんと云ふ教へも、我等と宗教者との相違はあるなり。宗教者は法のためには、身心共に捨つるも惜からじとの念力を教へたるにて、我等の云ふ万人たりとも我行かんの言葉は斯る浅薄なる意味にあらず。稔りて正しき備へをなしたる者ならば、一人も万人に勝るるにあらざればなし難し。故に優れたる修業の度を重ねたらば万人おろか億人たりとも是にあたり、傷けらるるものにあらずとの意味なりと知らば可ならん。宗教に依って世を建設する力なくんば宗教の価値はあらざるなり。如何なる混乱なしたる世相なりとも正しき宗教によって、万人たりとも我行かんの程度迄進みたる者ならば、世を安ぅすること至難にはあらざるなり。現今の宗教にては混乱したる世を統括して治むること難からん。其は宗教者の力があまりにに貧弱なり。宗教者其自身が未だ整はざるに、何ぞ世を建設する力あらんやと我等は寒心に堪えず。宗教者よ。早くめざめて己が徳を積み重ね、然して混乱せる世を統括して治めんことを願ふ。我等は宗教者にあらねばくだくだしく論ずるの要なけれど、あまりに力なきを憂ふるあまり注意迄に語りたるなり。 

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