覚者慈音212  大霊界  絶対とは如何なるものか  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO164
 絶対とは如何なるものか          その7                                                    教主寛大 講述


 すべては無言詞の働きによって肉体にも増減変化を与ふるなり。無言詞の範囲は複雑且つ微妙なるものにて、肉体が増減変化するが如く、無言詞大霊界はその悉くの具備を有する世界なるによって、汝等諸子の肉体より想像せば、無言詞界の姿は見聞せずとも知ることを得るによって、我等は斯く語り居るなり。所謂無言詞界を縮小して作られたるものは汝等諸子の肉体にも及び居ることを知りて、其を参考として考へなば従ってその界の有様は想像することを得るによって、汝等世界のすべてのものの姿を変ゆれば、その悉くが無言詞界大霊界に変ずると見なして思慮想像せよ。事実はこの居に移されて見聞せば明らかに解することを得ん。我、くはしく語るとも汝等諸子は、唯知るのみにては何等の価値もなし。却って迷ひの為に正しき信仰を失ふ結果となりては、神に対して申訳なし。されば大霊界と汝等の肉体とが一致なし居るものと見なして、修養修業の道を正しく歩み居らば其にて望は叶ふなり。
 是を要約すれば汝等の肉体すべては、最早無言詞界大霊界におかれ居ると見て差支なき程度に、化せられ居ると承知せよ。汝等諸子の肉体は恰も未熟の果物の如し。是を成熟せしむれば其にて無言詞界大霊界は明らかとなるならん。斯く思ひて修養せんことを望む。日々の修業をあやまたず修養怠りなければ其にてよし。軈ては成熟の果物とならん。大自然に順応せば一歩々々絶対界に到達の運びとなり、やがては望みの通り道は開らかれ行くならん。一本の樹木に夥しき実を結ばすればふるいおとされて、多くの廃りたる実のあることに心せよ。汝等諸子は余りに種々様々の事柄を多くとり入るれば、未熟のものを余りに多く作るによって振い落さるるなり。完全無欠の結実を得んとならば彼是余分のものを稔らすにも及ぶまじ。一も修養二も修養とあまりに多くのものを知らんとせば却って迷ひを深くす。迷ひを深くすると云ふは未熟の結実を振い落さるると同様の姿なりと知らば可ならん。
 浮き世の混濁を厭ひて山間幽谷に住居する行者達が長寿を保ち居るさへあるに、汝等衆人の世界には自殺者の余りに多きを見る。是等は未熟の果物なるによってすたり捨てられたるなり。人集りて相寄り相助けて生活なすならば、斯る事のあるまじきものをと我等は痛嘆に堪えざるなり。余事にわたりて申訳なし。本論に返へすべし。山間幽谷に行をなすもの長寿を保つは何故ぞ。修養修業と諸子は日々学問をなし居れどみな相手ありての事ならん。山間幽谷には教へを受くる相手なければ何によって修養修業をなすや。剰(あまつさ)え長寿を保つは何によるかを考ふる時、大自然の声は発せられて其が言葉となりて行者を導く。其によって行者は修養修業をなすに依って正しき教へを受けて飢えず凍えず、大自然の原理を体得して其れによりて長寿を保ち居るなり。然して行者達は天変地異も知り且つ世の中の有様をも手に取る如く知る事も得、或は天界のさまを見聞して益々智識を増大せしめ、其によって完全なる稔りを得て最後は昇天することを得るなり。

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