未知日記講話集 大霊界 第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ 神を通じての思ひやりなりせば、その心が忽ち病める人をして快方にに向はしむる 教主寛大講義

大霊界入門記    後編                 
第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ                                                    その10
                       教主寛大講述



 今や汝等諸子の日本は秋となりて百姓が収穫に胸をときめかせ、明るき顔色をもて農事にあたり居るならん。秋とは即ちフクなり。稔りの秋は肉体をはたらかすにも喜びの心にて励み居るならん。心を悦ばせ心を楽しくするは稔りの秋なり。是フクなり。フクの階の仏達は恰も是に類したる思ひにて事にあたり居ると思ふも可ならん。春には春の喜びあり。夏にも亦同様ならん。然るに夏の終りには天災の障害より心を労すること少なからずあるなり。然してそれ等の心配なければ秋はたのし。是等の事よりチ、シュ、キュ、ジョウの四つは小児時代より成人迄の事柄を聯想し、ギョウ、コウよりは成人後の事柄なりと思はばうなづくところあるならん。ギョウを春とすればコウは夏なり。故にコウの門は活躍せざればフクのそなはりは来らず。コウの夏は心配なり。フクの奮起は楽みにあるによって雀躍して是にあたると同様の関係あるなり。この事柄より大きく天界の事柄を思惟せよ。先に用いたる大異小同の言葉を深く味ふべし。全宇宙より汝等諸子の世界を観望すれば一個の細胞にもすぎざるなり。その世界にありて全宇宙の広大無辺なる事柄を測定せんとせば小さき心にて量り居りては到底望みは叶ひ難し。されば広大無辺なる魂を発育せしめて其によって求めずば希望は果さるるものにあらずと承知せよ。
 
今慈音が慈声に対しこだま会にて泰岳が語りし思ひやりと云ふ心の談話をなし居れり。この言葉に対して慈音の心とこだま会の会員との心が同じ思ひやりと云ふ言葉に於ても其へだたりは異なる。人間同士の思ひやり、其は唯同情にすぎず。されど神を通じての思ひやりは徹底することの深し。すべてのものに対して思ひやりの心あらば、神を通じての思ひやりにあらざれば徹するものにあらず。こだま会の人の中に患らへるありて、その看病にあたりたる時なやめる人の苦みを見て、唯失心してなすところを知らざりしと云ふことを、欣情が慈音に語りたり。もし彼女にして神を通じての思ひやりなりせば、その心が忽ち病める人をして快方に向はしむることは、神ならでは他に求むるものあらざるべし。己の心のみさわがせ居りては其思やりは、却って我身をも傷くる結果に陥るやも計られざりしなり。いささかにても信仰心ありたればこそ、彼女は倒れざりしなり。もし彼女にして信仰心なければ彼女も卒倒したるやも計られざりしことあるによってなり。汝等衆人は他人の愁ひを聞きて唯己が心をさわがしめるのみにて、思ひやりの心は彼に通ぜず。故にその度幾回となく加はらば却って己が身をわずらひに陥らしむることあるなり。注意せざるべからず。されば泰岳の語りし思ひやりとは、神を通じての思ひやりをなせよと教へしことは云ふ迄もなし。是等の点あるによって宗教の大切なることは知らるるならん。他力信仰と云ひ自力信仰と云ふも帰するところは思ひやりの念なり。我心より我魂へ相互が思ひやりの意味を通はせ居らば、最後の望は達せらるることを種々様々の方法より導き居るは、即ち宗教の法にして一言にて言はば斯くの如し。フクの門は是等の事柄を広くなしたるものにて難かしき事を意味するにあらず。思ひやりの心より口ばしり出づる一言の念仏が、其働き、力の偉大なるに驚くこともあるならん。一言の題目又然あるなり。神に懺悔する心等々すべて思ひやりなり。思ひやりの心頂点に達したる時、知らず知らず口より声となりてあふれ出づるその力こそ、真の思ひやりの法に合ふによって働きの程度は広大となるなり。

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