覚者慈音122 大霊界  大霊界とは如何なる処か  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO78
      
    大霊界とは如何なる場所か   その3
                                                                               教主寛大 講述


 兎に角神より出でたる汝等諸子は神の世界に帰りて、神と同居するに至らずば、任務を果したりとは云はれざるなり。その居に達する迄の経路はながし。同じ網の目をさまよひ居りては、億兆修行を重ぬとも仏以上の進化は望まれざるなり。我は神を知り神の命に服し居れど、未だ神の子として同居はなすことを得ざるなり。故に我は神にあらず。我も前途は遼遠なり。まして動物性の殻より抜け居らざる汝等諸子にして、神など如何に口にすとも神を知ること難きは当然なり。其は未だ行中にある汝等なれば、先づ動物性より抜け出でての後、追々行を重ねなば何日かは神を知るに至らん。故に前途遼遠なれば希望を捨つる勿れ。中途にて挫折する如きことありては、神に対して申し訳なからん。
 我かく語らば宗教くさきことを語るものかなと思ふならんも、我は宗教者にあらねば、善事を行ひ悪事を捨てて、世を害する事なく一生を全うせよと云ふ如き教へはなさざるなり。汝に与えへられたる魂は、汝の造り主なるべし。その造り主なる魂が、汝を育つる力なければ、汝は育つものにあらず。但し魂(たましい)と云ひしは魂(こん)にあらず。霊を指したるなり。仏教の言葉を応用すれば、仏法僧の三宝より霊魂心を考へなば自ずと道は開らかるべし。されど仏法僧のみにては未だ完全とは云ひ難し。仏の上に神と云ふものを考へて、神仏法僧との四文字を巧みに応用して、導きの資料とせば可ならん。即ち神とは霊を指し、仏とは魂を法とは心を僧とは肉体をと其々にあてはめて考究せば自ずと道は開らかるべし。法に相当する心の肥料は、すぐれたるものにあらざれば養分とはならざるべし。されば心の持ちかた如何によって、魂と云ふ宝が光彩を放つ程度迄磨き上げらるる事によって、僧に相当する肉体も共に浄化せられて、ここにはじめて動物性より脱け出でて、汝等が云ふ仏菩薩の境涯に入るなり。汝等諸子は余りに秘密は多くして表に現はすもの少なき為、魂は常に内部に潜在して混濁するが故に、汚れて光彩を放つことあたはざるなり。されば秘密のなき人とならざるべからず。宝の珠を倉庫の裡に蔵し居りて、是が力を世に示めさずば宝としての甲斐なからん。汝等諸子の世界は余りに秘密は多し。故に世は治まらざるなり。我、斯く語らば諸子は云ふならん。神の世界にも秘密と云ふ事ありと聞く。何故神は秘密なし給ふやと神の秘密と汝等の秘密は表裏の関係あり。汝等諸子の世界に於て仏教の中にに、真言秘密と云ふ法を伝ふる宗教あり。この教へを宗教者の過誤より彼是と誤ちたる伝道をなすによって真言の意味が横道に入りて、すべては秘密の法なりとて伝ふることを避け居れり。是等は大なる錯誤なり。世を救はんがための秘密と、世を害せんとする秘密との相違は、諸子も諒解することを得ん。されど秘密と云ふ言葉に至っては同一の如き関係あり。この事に対して聊か語りをかん。

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