覚者慈音121

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                          NO77
      
    大霊界とは如何なる場所か   その2
                                                                          教主寛大 講述


  汝等諸子と雖も肉体を有する間に真のさとりを得たらば、無言詞界の声は聞え有様は見え、然して宇宙を正しく認識することを得る具備は有し居ると承知して行ぜよ。我、斯く語らば諸子は思ふならん。其は他ならず。慈音の如き一野人が天界を見聞したりとあるならば、釈迦キリストの如き偉大な聖者が語り聞かせ居る説は、天界を見きはめての後ならでは語ることは難からん。是等の異なる処は那辺にありやとの疑ひを有する人は多かるべし。よってこの疑ひを晴らさんが為に些か語りをくの必要あり。次に語る言葉によってその事柄を認識せよ。
 大凡天界には上下の差別はあらざるなり。又貧富貴賤の相違もあらざるが故に、彼を尊しとし是を卑しとする如き事も又あらざるなり。慈音を一野人と思ひ釈迦キリストを聖者として尊ぶは其は諸子の世界の風習にすぎず。慈音も人なり。釈迦も人なり。何等異なるところなし。故に天界に於ては斯る区別はあらざるが故に、依估の沙汰はあらずして皆一様の取扱ひをなし居るなり。ミキョウ。セイキョウ。テッシンの場合を汝等諸子の世界にて考ふならば、ミキョウを卑賤としテッシンを尊しとして取り扱ふならん。其れと同様にして慈音を卑賤とし、釈迦を尊しとするは其等は皆諸子の世界に階級ある故なり。是が天界に於ては何等区別はあらずして一様の取り扱ひをなされ居るなり。釈迦は釈迦としての任務、キリストはキリストとしての任務、慈音は慈音としての任務によって相違あるのみ。聖者と云ひ野人と云ふも汝等の世界の風習にすぎず。慈音は小さき任務を有し、釈迦キリストは広き任務に服し居る迄なり。是を己に架せられたる任務と云ふなり。分野と云ふなり。釈迦キリストは己の分野を全うし、慈音は慈音としての分野を守り居るにすぎざるなり。釈迦キリストが天界の様をありのままに語りたるに不拘、其が針小棒大に流布されて、彼等が教へをそのままに伝へることをせず、彼是を大袈裟に語らんとして、却って小さく化せしめて其が虚偽はりと変じたるも、皆後輩者の至らぬところより今日の如き種々様々の虚説を披露するに至りたる事は、真に遺憾にして釈迦、キリストも唯呆気に取らるるの他なかるべし。
 釈迦もキリストも共に、宗教を亡ぼすものは、宗教者なりと語りしにてはあらざるか。実を伝へず嘘を伝へるが故に、宗教は亡ぶるなり。キリストは神かと 訊れし時、是とも否とも答へざりしと伝へ居れど、イエスは我、神にあらずと答へたるなり。然るに後世に至って聖書の過誤よりイエスは、神の直子なりなどと書き残したるは是等も過誤なり。汝等諸子もみな神の直子なり。神の生みたる子の意味にあらず。凡ては神のものなれば神の子と云ふも差支なからん。禽獣虫魚に至る迄みな神の造られたものなれば、神の子と云ふも何等差支なし。釈迦に於ても亦然り。仏になると称したれど神になるとは語らざりしなり。されど釈迦もキリストも神になる時代来らば神ともなるならん。彼等は未だ神にはあらざるなり。是等の事は我、よく知る。されど宗教者の現在を慮って語る事は避くべし。 仏教者は神より仏がすぐれたるものとの意味を伝へ居れど、我の語る神とは、仏より遙かにすぐれたるものを指し居るなり。人は動物性より離るれば、仏ともなり得れど、其以上進む事は種々様々の経路を経るにあらざれば、神の存在を知ることは難し。神の存在を知りて尚も、行力を重ぬるにあらざれば、神の子として同居することは得られざるなり。


×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。