覚者慈音1002 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  霊光と霊感の区別を如何にすれば知る事を得るか  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1002
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊光と霊感の区別を如何にすれば知る事を得るか


                セイキョウ貴尊 講述
                2019.5.26


 静座座禅或は其他の方法によって無我の境に入りて心を抑へ、魂(こん)を丹田せしめて魄を圧迫する習慣を作るによって、魂(こん)にのみ霊光は輝きて表面に現はるる時、指導者が真の霊光に浴したるにあらざれば魂魄霊の区別を別らかに知る能はずして是を全く霊化なせしと思ふなり。魂(こん)は陽に働き魄は陰に働く故、其悟しと云へるものの態度を考察せば魂の悟か、或は魄の霊感なるか、但し魂魄一体となりたる霊光かの区別は明らかに知ることを得るなり。俗に云ふ神懸りなどは男子は魄に多く、女子には魂(こん)の現はれ多し。此理は先に語りし如く、男子と女子は魂魄の用法は逆比例しあるによって異なるなり。故にこの神懸と称するは大旨一方的にて是に一種の自我心を伴ひて、奇怪なる行動をなす者多ければ一見にして看破することを得るなり。汝等斯く聞かば何か不安を感ぜざるか。唯静座し或は指導者なき座禅は危く又あやまれる催眠術又は不正なる霊媒者などに欺かれて、斯る一方に偏する感受法にては変態性神経病者となるのみなり。故に我は慈音を生涯斯る一方的あやまれる悟道に終らしむるを不憫と思ひて、自問自答の法を教へて迷悟を打破するを得せしめたるなり。故に今日迄慈音は迷ひに迷ひて稍もすれば信仰を棄てんと計りしことも屡々なりき。然れども我は彼の信仰を厚からしめん為に、魂のさとり魄のさとりの区別を今日迄語らざりしなり。今我是を語れるに依て、慈音は全く迷夢より醒めて感謝しつつあるは我も多とす。
 然して尚有難きは教主の愛なり。我等が教へし自問自答の他に頭腹一体の法を教へられて心意魂魄一如の法を完全ならしめられたり。頭腹一体とは所謂魂魄を整へる方法にして、一方に偏る恐れなければ一般人が日常生活の中に取り入れて修行せば安全にして効果もきはめて顕著なり。又此わざを専門に行ふならば他の方法の如く一方に偏らざれば危険少なく、霊光は正しく魂魄両道に輝くによって修行後の威徳は甚大なり。普通の法は一見成功は早くなる如く見ゆれども先に説きたる如く、一方的となる畏れれば指導者を択ばずば迷悟に陥らん。即ち心魂を圧して魄意を立しめ、或は意魄を圧して心魂を立しむる結果に終らば変態性の悟道となりて真の悟を得ることを得ざるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する