覚者慈音951 未知日記 第六巻 光明論 大智順歩の法について   下巻 光明論 巻の五  五味調和と大智順歩について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音951
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
五味調和と大智順歩について



                セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.23
                   222番


 我、円海の語るを聞けば行者は一切衆生を救はんために己を棄てての誓詞誓文をたてて難行苦行を重ねて業終りての後は、唯一筋に一切衆生のために大智順歩の法を怠らず行ひ居れりとの教へをなしたり。円海老の此教へを慈音にわざわざもたらせしは唯座興にも世間話にもあらず。慈音をして悟せしめんとの老婆心に他ならざるなり。近頃の学者達の論説には余りに肉体に拘泥したる理論のみ多くして、精神上に及ぼす学理は余りに貧弱なるを推して円海老は慈音に対して斯くは計らひたるなり。因より未だ修行中にある慈音に対して大智順歩などの如きむづかしき講話をなすとも理解し能はざることは当然なるに不拘、教へをなしたるには深き意味と厚き情のほとばしりより出でたるなり。そもそも此法は行者が最後に伝授さるる方法にしていささかの修行にては行ひ難けれども五味の調和に対して、理論のみにても知り得たらば悟道を得るにあづかって力とならん。我、円海の厚意に報いんがためにいささか語り聞かせをかん。汝等も頭をたれて聴聞せよ。慈音よ。汝は特に心して拝聴すべし。
 汝等はいささかの事をなすに当ってもよく献身的努力と称へおれど、そは口先ばかりにて行為には現はさざるならん。されど大智順歩の法を行ふ迄に至るには一切の欲望はもとより身を捨て己を捨て、更に生命を捨てて初じめて修得することを得るなり。然りと雖もこの捨つべき事柄にも法を授からんとの欲望にて捨つるにはあらず。己は因より死せるなり。死しても一切衆生の餌食とならんと云ふ真の献身にての行ひにあらざれば大法は行ひ難し。かくも至難なる事柄なるによって一般人になし得る業にあらざることは汝等と雖も察することを得ん。されど汝等と雖も大智順歩の道理を会得して世の為人の為に尽さざるべからず。此法たるや行者が行ふ術を修得せよと勧むるにあらず。即ち大智順歩の心を起して人の為に尽せよと勧むるなり。大智順歩の心とは即ち読んで文字の如く大なる智慧に従ってめぐるの意味なれば特殊の技術を用いずとも是に従ひ順ずれば如何なる人にも行はるべき道理あることを悟り得るならん。親は我児を養育し教師は門下生を教ゆるも即ち大智順歩に依らざれば立派なる子女は得難く、又宗教を普及するにも此心に依らざるべからず。仏教に縁なき衆生は度し難しと云へる言葉あれど、其は一宗一派の関係に属する言葉なるべし。

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