覚者慈音886   未知日記 第六巻 光明論   上巻 光明論 巻の四  撓む勿れ。 教主寛大講義

覚者慈音886
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡  その一
霊鏡と人界

汝等撓(たわ)まず日々の行の中に是を取り入れて修せば、業務は著々向上発展しつつ一方にては霊光の大徳を受けて、光彩を放つ、即ち一石二鳥の恩恵に浴さん。撓む勿れ。


                教主寛大 講述
                2019.⒊ 19
                    163番


 先にテツシン等が述べたる如く霊は肉体を飽和し全身の全部に充ちあふれ居ると云ひしが、汝等はその意味を完全に認識なし居らざるなり。此理を知らんが為に誰もが静座し或は座禅して工夫を凝らすなり。然らば座禅静座によりて果して此理を究め得る理由はと云へば、精神統一をなし邪念を払ひて真の霊に触れんと計る法なれば、ここに正しくして是を措いては他に方法は無しとさへ伝へらるるなり。然らば人間は常住坐臥静座座禅なし居らざれば霊光に浴するを得ずとせば、霊光とは誠に不自由のものなりと云ふ者もあるならん。又医学上より静座座禅について考察するならば臍下丹田に気力を集注せしめて静かに神経の沈静を計る時、肉体すべての神経が丹田に集注せられて休止する結果神経としての働きを失して、無痛無苦無感覚となりて心のみの働きより一種の変調を現出するに是が果して真の霊なりとは云ひ難からんとの理屈を称ふる学者もあるなり。其は半道理にして半理屈なり。即ち無痛無苦無感覚迄は理に合ひ心の変調と云ふよりは不合理なり。何となれば医学者は肉体にのみ重点をおき、心霊の研究は余りに無視し居るにより研究をおろそかになし居るによりて斯る不合理の解釈を流布発表なしたるならん。今我の語る処をよく聴くべし。
 心意魂魄一体となさば無痛無苦無感覚となるは、肉体のみにして、心意魂魄は一体となりて結合するに依てここに初めて、霊光の徳は現はるるを推知すべきなり。然らばその境涯に達せずば霊光は働かざるかと云ふに決して然にはあらず。霊光は常住坐臥働きて決して休止し居らざるなり。然りと雖も汝等にはその光の徳に浴するを得ざるは心意魂魄個々別々の働きなしあるによりてなり。故に心意魂魄を一に集めて其々が保有する気光素の働きを一体ならしむる事によりて、霊光より放射せる空源力が加はりて此処に初めて霊光の威徳が現出し来る事を味はふに至るなり。是を座禅によりて自得見性とか、本来の面目とか称し居るなり。汝等はセイキョウ、テツシンに教へられたれば此理にて其信を深くしたらん。又インドの行者の中には二年入滅三年入滅と称して、肉体の汚物を洗浄し、土中に三昧する者もあるは皆此理に基けるなりと知らば可なり。斯る極端なる荒行をなさずとも頭腹一体の行を常住坐臥行ひ居らば何日かは此妙智力を受けて、面目坊の立姿を見ることを得ん。呵々。
 さて霊光と空源力の関係を樹木にたとふれば根は霊光にして、幹枝葉果実香は空源力と思ひて考慮すれば、明白に其大要は知ることを得ん。是を人身に取りて見れば人根は霊にして、他はすべて空源力の現出によると考へ、気光素等も空源力に含有すと推知して諸々の行動に留意して工夫せば自づと霊光の威徳に浴することを得ん。汝等撓(たわ)まず日々の行の中に是を取り入れて修せば、業務は著々向上発展しつつ一方にては霊光の大徳を受けて、光彩を放つ、即ち一石二鳥の恩恵に浴さん。撓む勿れ。捨つる勿れと然曰ふ。

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