覚者慈音684  未知日記 第三巻  念力集  テツシン貴尊講義

覚者慈音684
未知日記 
未知日記 第三巻      
安楽の巻     
        その1      
            
                 テッシン貴尊講述


 神の有無に思ひ煩はんよりは無と考へて己の力によりて、神を作り出せよとミキョウは教えたり。真に面白きと我は感じたり。恰も極楽を念力によりて求むると云へるに等しければなり。理論は如何にとも説き得べく、実行に移して始めて真を現はす。実行してその曲直を明らかならしむることを計るべし。一日働かざれば、一日食はざる底の修行こそ望ましけれ。すべては実行なり。理論は時間を空費するのみ。正しきと悟らば愚者の言葉も斥くるべからず。不正の教えならばたとひ智者の名論卓越なりとも用ゆべからず。疑心多き者は罪も亦多ければなり。是に反して疑念強き者の信仰に入らしむるは容易の業にては得られじ。中にも半信半疑の人を済度するは艱難なり。又半信半疑の人は決断力に欠くるを以て、度すること容易ならず。斯くの如きは真の労苦を知らざる者に多し。小児の頃より気儘我儘に育てられたる結果もあるならん。又世上の事柄もわきまへうすきにも依るなるべし。斯る人は利己心のみ強く己のみ安全ならば、他を顧ることも従って欠くるなり。故に斯る者に信仰を得せしむるは自己満足の方便を以て誘導せざれば、容易に信仰の道につくものにあらず。我等の如く福を賜はると云へる如き法も一種の方便なるべし。正しき信仰を得んとせば、迷信の門を訪るとも、其教えをよく翫味して後にあらざれば信ずるべからず。バラの香に惹かされて棘にさされて傷く勿れ。能く聞くところなるが何々と称する神が出現せりと云ふ如きを軽はづみに信ずべからず。是につきて行法に於て述べたる如く、真の神は人間の眼に見るあたはざればなり。
 然らば彼等の見たる神とは如何なるものなるかと云ふに、是は人間が空想聯想によりて作り出せる絵空事に過ぎざるなり。ミキョウの云へる自己より作り出だせる誤の神なりと悟るべし。即ち彼等が示めすところの神を見よ。みな其国々の人種に類似するを見るも明瞭なる事実なり。然れども彼等は云ふべし。そは我等が邦々の神なるが故なり。その具現なりと。我は是に対して訊くべし。汝等地上に種々の種子を蒔く。其ものに人間とは如何なるものぞと問ふ時、植物等は己の姿に似たるものを人間と答ふとも、そは人間の真ならざることを知るべし。此比喩に徴するも愚説なるは明らかなるべし。道理も枝葉にわたらば理屈となる。慎むべき事にこそ。
 ミキョウの神を作り求めよと説きしは、斯る絵空事なる空想を以て、迷ひの長物を組織して世の中を惑乱せしめんとするにあらず。神の姿は見えざれども、神の力神の智慧を己の心に求むる方便を教えたるなれば、幻影などを念に止むべからず。念ずる力を深くせば、自ら神を知ることを得るべきなり。信仰を深め、念を厚くせざれば何事も悟りを得ざるは当然なり。人間にもあれ、動物に於ても念力強ければ不可思議の力現はるるは、空源力神通力に依る事は既に汝等も知り得たるならん。汝等が心及び肉体を支配する汝等の親は、此空源力を知り、又是が用法をも知り居るなり。汝等は此親を我心と同様に考え居るが故に、他を求めて空しき業を行ひ、空しき時間を空費して何等得るところなきなり。

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