覚者慈音680  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音680
未知日記 
未知日記 第三巻      
喜悦の巻     
        その3      
        喜心録
        唯論議  無問答
                 ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述


ミキョウ貴尊講述


 慈音よ。汝今円海翁の実話により深く悟りし処ありたるならん。泥水の教え、砂をくぐらせ、布目を通して、是を清らかになすとも清水の如くならざるが故に、や、と云ふ言葉を用い居るに心附きたるか。肉体は沈殿する泥土にして表面の水は心に等しく、又別なる瓶の清水こそ親なり。故に表面にある心の水を親に合せしめざるべからず。一度旋風巻き起れば清水の瓶は固く蓋を閉ぢらるれど、濁水の瓶は捨ておかるるならん。即ち濡れぬ前こそ露をもいとふの俗言の如くせらるべし。然らば塵埃に依って水の濁は益々加はり、果は如何ともなし難く、大地に捨てられて自滅の他なかるべし。故に斯くならざる間に早く砂洗布通を行いて清水の瓶に交はり塵風土風には蓋をせらるる道を講ぜざるべからず。心水清ければ菩提の影なかに現ずの如く、清らかなる親の影を宿さざるべからず。清には正を誘ひ、濁には濁を招くは自然の法則となり居れることをも考ふる要あるべし。
 汝等二個の瓶と云ふを何と聞きたるぞ。即ち清瓶とは首にして濁瓶とは即ち胴体と云へることより推理して考慮せよ。然して是に水を充たしめたるは誰なるかを考へ見よ。即ち是は汝等を育てたる肉体の父母なる事に心づくならん。汝等の父母は籠にて汝等に教への清水を充たさせ、又食物の濁水を充たさせたるなり。然れども教育の智慧は容易に育たず。食物より受くる肉体の成人は早かりしことを教へたるなり。
 此論説によりて命令を下したる師とは誰なりと云ふことも悟りしならん。神の命によりて汝等が世に処して自由の行動をなし得る迄、汝等をはぐくみ育てたる汝等の父母は、汝等の成長を楽みて其日其日の苦痛を苦痛と思はず、汝等がためにには生命をも惜まざりしなり。さればこそ汝等は安らかに育つことを得たるなり。滴水の法、或は水滴の法とも云ふ法の理由は此処に存す。
 汝等修行をなすに於て、円海翁は斯く有難き、又誰にも容易に悟り得る法を教えたり。汝等感謝せざるべからず。又円海翁は去るにのぞみて安行楽行して砂洗布通を忘るる勿れと、言葉を残して行けり。汝等深く心すべきことなり。清流に泥を投ずるとも、流れは直ちに是を止めず何処へか運びさるべし。清流は神の作りたる自然の力あり。人間の作れる瓶水は然らず。一度汚さるれば是を清流ならしむるは容易の事にあらず。斯る教へも水滴の法にて学びしならん。又他を害するも咎めず。自ら儲けし我児に害あらば咎むると云ふ愛着の教へも受けたり。是等を悟らずば水滴の法の真意を知る能はざるなり。

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