覚者慈音229 未知日記講義第一二巻  大霊界 未知と既知の区別  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO179
 未知と既知の区別          その5                                                   教主寛大 講述


 予言者の中には或一国の為に、その国の利益の為に計画的に予言をなして、他国人を陥れんと企む者さへあることは注意せざるべからず。予言者のみにあらず。宗教者にもこの種の多きは事実なり。宗教によって己が国の利益を計り他国人を惑はす如きは何と云ふ罪人ぞ。神を種子にして斯る策略をなす如きは、実に苦々しきことにて神を恐れぬ不埒者なり。されど神は是等と雖も決して罰するものあらず。神は罰せざれども己に出でて己にかへる。其宗教者こそ、己より罰の報いになやまさるる結果となるは自然の法則にして、神の罰するにあらず。余事はとにかく未知を既知に変ゆるには歩みを運ばざずば見聞することは難し。無言詞を見る力聞く力そなはらば、居ながらにして知ることを得るなり。世人の言葉に君子は居ながら名所を知ると云ふさへあるならん。君子とは天の子即ち神の子と云ふ意味ならん。神の子となりてその法則に従ふものこそ君子なるべし。神の法則に従はば居ながらにして、すべてを知る力そなはる。是無言詞を聴くによってなるべし。
 すべて無言詞は確定したる事にあらざれば通ぜしむるものにあらず。故に無言詞は絶対にして既知を既知として与へ居るなり。是を信ずる力乏しければ、其にすら不審を抱きて彼是と迷ひの心を起すは、一般人の習性なり。兎に角無言詞は既知を伝へ居るに不拘、是が有言詞なる言葉に変ぜらるる時、其言葉が正しからずして横道に入る時は既知は又更に未知となる。恰も算数に於て運算の誤りたると同様の姿となるによってなり。例へば我等は慈音に伝へ居る無言詞が、慈音によって誤ちたる言葉に変へらるれば其は事実とはならずして、他の姿に変ぜられて事実とはならざる如くなる比喩に等し。無言詞とは凡てにある具備なるが故に、其に接して共鳴すれば湧き出づる感じにして不思議なるものにあらず。一個の花に於ても無言詞の声はあるなり。されば月を見て種々様々の感想に囚はるるも、是みな無言詞の声と知らば可ならん。百目の見るところ月は月なり。然るにその月より其々に与ふる感じは異なる。是等は月より語る無言詞にして、見る人の心に感ぜしめて皆其々の異なりたる話をなし居ると同様なり。風土気候に於ても亦同様にして春は春の感じを与へ、夏は夏秋は秋と、みな其々気分の異なるも無言詞のあらはれにすぎず。聞く人の力に応じて共鳴なし居ると知らば可ならん。

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