覚者慈音226  未知日記講義第一二巻  大霊界  未知と既知の区別  教主寛大講義   教主寛大講述

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO176
 
   未知と既知の区別          その2                                                    教主寛大 講述


 例へば美はしき花を見る。其は縁と云ふものにて、云はば一つの問題を与へられたる姿なり。是を美はしと見て立ち去らば唯美はしと云ふ答へにて既知の終りを告げたるなり。即ち花と云ふ未知の問題が美はしと云ふ既知の答へにて終りたるに他ならず。然るに汝等諸子はこの些細なる問題より大なる錯覚を引き起こすこと多し。美はしき花を見て是を折り取り我家に持ち帰りて花瓶にさし、萎るる迄眺め最後は醜しとて捨つる等の行ひをなす。是等を如何に考ふるや。是には種々様々複雑なる問題が次より次へと湧き出づるならん。修養修業の方法には斯くの如き複雑なる多くの経路あるため、却って諸子は迷ひのみ多くなりて、却って大切なる道を踏み誤ること多し。故に望みの地に到達することを得ざるなり。横道に迷ひ入りたるものを正道に引き戻すは仲々容易の事にあらず。諸子は未知を既知になさんがために苦むなり。俗言に盗人を捕へて見れば我子なりと云ふさへあるならん。己自らにして己を知らず迂闊に横道に迷ひこみて居ながら、其を知らずして行きづまりとなりて始めて横道に入りたることを知りて呆然となる如きは、即ち盗人を捕へて見れば我子なりの結果となりたるに等しかるべし。無言詞を聞く力備はらば未知と云ふ迷ひは、徐々に影を没して既知となる。故に迷はざるなり。
 無言詞を聞く力とは即ち無言詞界に移されたる人にて、慈音の如く既に無言詞を聞き居る者こそ、此世に在りながら既にこの界に入りたるに等し。事実は無言詞界に移されたるなり。故に彼は居ながら天界を見聞する力備はりたるが故に、各所に導き案内せられて広く見聞なし居るなり。諸子にもこの具備はあれど、諸子は是を知らず。唯目前の事柄にのみまなこを移し居るが故に、見聞することの得られざるは所謂目前の景色にひかされて遠く見ることを得ざるにすぎず。例へば一室にありて周囲を閉め切りて坐し居る姿なり。故に襖障子を開け放ちて周囲を観望せば広き所は眼に映じ来る。其と同様なりと思ひて先づ広き所に居を占めて、然して尚まなこを耳を開かば可ならん。されば広き所とは如何なる所を意味するやに思ひを廻らすべし。肉体の耳目は限度あり。心魂霊の耳目は限度なし。故に限度なき耳目を開かば可ならん。一プラス一と云ふも一億プラス一億と云ふも計算法には変りなし。されど数の上に於てはそのへだたりは多かるべし。其と同様にて見ると云ふことには変りなし。一を見る目一億を見る目、見るに変りなければ心がけ一つにてはへだたりの区別はあらざるなり。限度を有する見かたにては正しきものを見ることあたはず、限度を有せざるまなこにて見るにあらざれば正しき見かたはなすことを得ざるなり。諸子は神を遠き所に眼を向くるが故に見えざるなり。神には遠近の区別はあらざるが故に、その区別を以て見きはめんと計るとも及ばざるは当然なり。神は未知なり。神を知らば既知となる。未知を既知に変ゆれば我ものなり。我ものとして神を知らざる道理あらんや。又知りたる以上用いかたの如何は汝等諸子の心任せになさば、其にて望は達せらるる筈なり。汝等諸子に与へられたる宝を我ものとせず、倉庫のなかに保存するのみにては我ものにして我ものにあらず。神を知りたるのみにては宝を、倉庫の内に納めたると同様なり。故に我ものとなしたらば是を広く応用するにあらざれば甲斐なし。徒に蔵し居りては無益のものにして却って他に奪はれせぬかと云ふ不安の念すら、生ずる結果となるのみ。煩ひの種子となる如きものを貯へをく必要あらんや。

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