覚者慈音209 大霊界  絶対とは如何なるものか  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO161
 絶対とは如何なるものか          その4                                                      教主寛大 講述


 汝等衆人天界に来りてその様を見よ。汝等が世界の人類の中に学者宗教者の多くが、汝等の言葉にて云ふ地獄に落ちて苦み悶へ居る姿の余りに多きを見ば、驚愕をく所を知らざるならん。学者宗教者にして斯くの如し。慈音の母の如く無学無智の者なるに不拘今は天界に於て安らかなり。然るに学徳兼備の人にして地獄に落ちて悶え苦むは何故ぞ。天界と汝等が世界とは余りにかけへだたりたる相違あるによって、斯くも苦楽を異にするなり。自然に順応するとせざるとの違ひは先づかくの如し。されど天界に来らざる汝等には、我の言葉を空しく聞きのがすならん。汝等諸子の理と考ふることと、天界の理とは、事に対して表裏の相違あること屡々なり。
 例へば日本の家族主義が廃せられて個人主義と変じ、その結果は如何になり行くかを考慮し見よ。是を今一段大きく取り扱はば国家主義とか民主主義とか称して個人主義となり、然して今後の結果は如何に化せらるるやをあはせて考慮し見よ。汝等の世界の憲法とか云へるものは先づ斯くの如し。神の定め給ひし法則は永久不変にして毫も変ることなし。汝等諸子の世界は切那々々の御都合主義にて悪ければ改め又悪ければ更に改む。斯るまぎらはしき法則は神の世界には通ずるものにあらず。九流界以上の所に来らば軍人もなく刑務所もなく厳重なる戸締まりの要もなし。又破壊せしむる爆弾も要なく人を殺害する如き悲しみもなく安全なる世界は何によって作られしか。即ち神の大自然に順応なし居るによってなり。汝等諸子の世界と雖も神の大自然に順応なし居らば軍備の要なく党派の必要もなく、罪を犯すものなければ刑務所の必要も亦なきに至らん。争ふと云ふは自然に遠ざかる故なり。戸締まりを厳重にして尚枕を高くして眠るあたはざる如き世界こそうたてしとは思はざるや。
 終戦後の日本に於て小児の遊戯を見れば玩具の拳銃を用いて盗人のわざをなし、軈ては次第に戦争の遊びに変じ、現在は棒を振りまわして野球の遊びより、其が次第に移り変りて剣劇の遊戯に変じ居るを見ても知らるる如く、無言詞は小児を通じて混乱の度を教へ居ることに気附かざるや。昭和二六年七月十一日の朝のこと慈音の孫、名は悠二、母に向ひて曰く「如何にすとも死せざるものは何か」母は知らずと答へしに小児曰く、「死せざるものは神様なり」と。是を聞きて母は斯くと慈音に告げたり。慈音は厳戒の言葉を以て感謝の意を現はす。悠二は当年五才の小児なり。円海が無言詞を彼に送りて是を知らしむ。無言詞の力はかくも微妙なるはたらきあり。力あり。音楽家はよく云ふ。世相の移りかはりを知らんとならば流行歌に耳をかし居らば自づと知ることを得んと。即ち流行歌に現はされ居る無言詞の声を聞けよとの意味なるべし。世相の移りかはりは無言詞によって現はされ居ることに留意なし居らば、未来の出来事が早く知ることを得るならん。未来のことを前以て知らしむるは無言詞の力あるによってなり。大正十二年日本の首都に大地震ありしことを早くより知りたる行者、衆人に告げて曰く「婦女子の頭を見よ。まげのなき姿にて往来なし居るを見るも明らかなる如く、近きうち首都は亡ぶべし」と、告げたりと云ふ話を我等は聞きたり。果して事実に現はれたるなり。無言詞は前以て予め知らせ居るに不拘、衆人は心附かずして傷くもの多きは眼識の至らざるのみにあらず、無言詞を見聞せんとはなさざるによってなり。

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