覚者慈音1667 絶対界  第十一巻 巻の一 テツシン貴尊講述 2020.01.23

覚者慈音1667
絶対界  第十一巻
巻の一
テツシン貴尊講述
2020.01.23


  絶対の意味はきはめて大きくして一言にて是を云ひ尽すことは難からん。諸子の思ふ如く絶対とは一に帰することを聯想するならん。一を絶対とし、二を相対として考ふるならば、其は数字の上の絶対を云ふにて、是を他に応用することは是又至難なるべし。人に生れて人に帰れば、人としての絶対なりと思ふならん。米より出でて米にかへる。即ち米としての絶対なるべし。米に生れて米にて終る。是は諸子には解するならん。されど人より出でて人にかへりしと云ふことは、明らかに知ることを得ざるべし。陰陽一体化して始めて絶対となると語り居れど、諸子にはその意味明らからに知る人少なからん。陰には陰としての絶対あり。陽には陽の絶対ありと仮定して考ふれば、陰の極致は陰の絶対となり、陽の極致は陽の絶対となる道理あらん。絶対の陰、絶対の陽、是を合して絶対となると聞かさるるとも、解したる如く又解せざるが如き迷ひを生ずるにてはあらざるか。静中に動あり、動中に静あり。静動合して無となるなどの説を聞かさるるとも、是を知ることは難し。唯然あるかとのみの考へを起すのみにて、己自らの心の中に確なるものを把握すること、極めて困難なるべし。絶対の理は斯くの如くまぎらはしきものにて、正しき絶対を知る人は少なし。
 例へば数に関しての絶対を一と云ふならば、是に零を加ふれば零対一、一対零の関係となりて即ち相対となる。我ありての彼、彼ありての我と思ふも相対にして絶対にあらず。然らば我と彼との一体は那辺にありや。是を絶対化せしむることをはたしてなし得るや。
宗教者の云ふ如く我即彼、彼即我の境地とならば、そは絶対なりと語り居れど、事実の上に於て斯る事の成立するやを考究せば、彼等の説は机上の空論にすぎざるべし。理に似たる説にて所謂理窟に他ならざるべし。
 斯くの如くの考へを次第々々に深くして追究に追究を重ぬれば、宇宙は所謂相対にして絶対にあらずとの結論とならん。対照となるべきものなくんば世は保たれず。然りとせば何処迄追究して考ふるとも、全宇宙は摩擦によって組織せられ居るとの理は正しかるべし。若し其理を正しとするならば全宇宙は絶対にあらずして、相対なりとの理論は却て成立するにてはあらざるか。ここに深く注意を向けよ。然して全宇宙は果して相対にして、絶対と云ふことはあらじとの理論となるやに至らずば、正しき絶対を知ることは難からん。我、テツシン、絶対界の講に当るに先だちこの事を詳らかにして語りをくにあらざれば、今後我の語る講話はすべて空論となる怖れあるによって、先づ緒言としてこの事の理を先にくはしく語りをくの要ありと思ふが故に、今少し解し難き事柄を語りて諸子に相対絶対の区別を明らかならしめんとす。  

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