厳戒の辞 (此の書の最大重要項目とも云うべき神に通じる祈りの言葉を未知日記全巻から網羅した抄録です。コピ-して幾度も幾度もお読み頂き、この言葉の真髄を理解して下さい。すれば、あなたの人生を変える神詞であることがわかると思います)



厳戒の辞について



私はいま未知日記という本の紹介を行っています。福井県の勝山市に住む75歳のお爺ちゃんです。名前は村上雄治と申します。この本は自己出版の形を取り、今は絶版状態にあります。依ってこのブログとの出会いが唯一の遭遇の機会であると考えます。もし関心のあられる方は、どうかそれを別途記憶していただけると有り難いと思います。あなたのこれからの人生に大きな影響を与える、珠玉の言葉が数多く綴られています。それは人智による言葉ではなく、神智の言葉だからです。未来の地球人類がどのような変遷を遂げていくのか。そして、貴方の死後、その魂がどういった曲折を経て次なる世界に移界されて行くのかも詳しく説かれています。どうぞご安心下さい。これは宗教書ではありません。言うなれば大哲学書とも呼ばれるべき範疇に入るものです。
ついでに申し上げれば、この書は現代の人類が読むことを想定したものではなく、ずっと後の、後世の人々が読まれることを基準に書かれています。現在、この書に眼を向けられる人はいまは殆どいないかもしれません。でも、一人でもいい。その人の為に是をお伝えします。此の書は市中に溢れかえっている総ての書を超脱しています。あの聖書、仏典などを含めて遙かに凌駕しています。まずはごゆっくりとご自身の眼で確かめてみてください。
「厳戒の辞」は、この書の最大眼目と云っていいほど重要なものです。この言葉を絶えず練習することによって、貴方の思いを神に通じさせることが出来ます。そしてその言葉が宇宙の中心にまで届くのです。更に厳戒の辞を唱えることによって、その広大な徳により自分の魂は清浄されて、魂の進化を促進します。どうか、一度読んで捨ててしまうのではなく、幾度も幾度も読み返して頂き、実践して欲しいと思っています。私などはもうこのページの箇所を数えきれないほど読んでいます。
あの八文字の言葉は無言詞と云われ、貴方の、言葉にならぬ胸の思いのすべてを自動的に文章化し、宇宙の中心におわす神霊に確実に通達させることが可能です。どうぞ近しい人にもまた教えてあげてください。
但し、その言葉を玩言の如く弄することは堅く禁じられています。どうか眼前に神を拝するような厳粛な気持ちでお唱えてください。
いま地球界で唱えられる祈りには限界があります。この厳戒の辞は空にも冒されず、虚にも冒されず、空虚一体化した祈りですから、熟達すれば貴方の自由自在の魔法の杖となることでしょう。私のような無名の一市井人に奨められてもはて、これはどうかなと疑念が産まれるのは至極当然であろうと思います。でも下記の祈りを吟味してのち判断してください。そのためにはこの未知日記の書籍一巻でもお読みになると宜しいでしょう。若しくは私のブログを読んでみてください。
 この厳戒の辞を最初に授けられた人は伊東慈音といいます。彼が何年もの間、天使方より苦行をさせられ、七年目にして漸くこの辞を授けられた経緯があります。翻って私たちはなんの行もなさずに、この辞の威徳を受けられるわけですが、どうか「有り難い、勿体ない、かたじけないの思い」を込めて唱えることが肝要です。そうすることで、この辞は更に力を得て、神妙不可思議ともいえる力を発揮するでしょう。この世界で、この辞を知っていた日本人は、おそらく200人に満たないものと思われます。其の大部の方々も逝去されて、今は本当に数少なくなっているのが現状です。ひとたびこの世に人間として生を享けたる以上、この厳戒の辞の詞を知らずして死んでゆくのは本当に勿体ないことだと思います。「逢いがたくして今ようやく出逢う」そんな気持ちでご一読ください。


(未知日記の書より厳戒の辞が解説されている部分を本書より抜粋謹写す)


光明論上巻105P~106P           テッシン貴尊講述


 教主立座に際し我に申されたる厳戒の辞とは即ち戒めの言葉と云うに似たれど、此言葉には種々際もなき尊敬とか感謝とか服従とかの意味も含まれ、且つ貴尊寛大を呼び求むる意味なども含まれある言葉にして、無量辞とも云ふべきなり。その言葉とは我、行法の巻末に
チ、シュ、キュ、ジョ、ギョ、コウ、フク、セン なる文字を記しおきたり。即ち此一五文字の言葉を厳戒の辞とは名附けられたるなり。もとよりこの句は汝等が国語に簡約なしたるにて、我等が寛大に用ゆる発音とは異なると雖も、その意味その作用(はたらき)その力には亳も異なることあらざるなり。
我今一五文字と称したるを汝等は見て八字よりあらずと思ふならん。故に教ゆべし。即ち、
チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。センの一五文字となれば、称ふるに際して、
チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、セン と連続的に発音をなすことをせず、チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。セン とそれぞれに明瞭なる音詞を発するを要するなり。(注意 ジョ(ウ)、ギョ(ウ)、の(ウ)は口内に含む故に二字と二字の発音の如くす。)
此辞の句を詳細に説明するには万巻の書を以てするも充分とは云ひ難からん。又言葉にては説き尽くすことは難し。汝等は知る仏教の念仏題目はもとより一切の呪文もこの中に抱含せらるるなり。又汝等懺悔の意味、帰依するの祈りのすべてはもとより、修験者が行ふ九字の秘法等も蓄在さるると思へば可ならん。又是を他に例せば音楽の名曲秘曲と云ひっべく、仮に是を技量劣れる者に教へたりとも詮もなし。彼は秘曲名曲の徳を発揮するに至らず、却って聴衆者の嘲りを受くるに至らん。
厳戒の辞を斯かる事と混同するはもとより僭越に過ぎるやも計られねど、譬喩は先づ斯かることにも通ぜん。唯此辞の徳を覚らず、玩言の如く弄するが如く称ふるとも甲斐なし。即ち長者の万燈より貧者の一燈なる心持ちを忘れざらんことを望む。
教主、出座立座に際しては心をこめ三称し以て、迎送の礼詞とせよ。此他朝夕臥床起床はもとより、洗面の前後食事の前後、人と応対の前後等々すべて何事をなすにもその前後に必ず三称なすことを忘るる勿れ。是は呪文にあらず。又願望成就の為の願文にもあらざるなり。この他詳細なる説明あれども慈音病みたれば、是にて此講を終了となし、第三巻にて又詳しく説明せん。
                      (昭和二〇年六月一八日正午)
 この日肉眼にては何等病める様子には見えざりしが、夜半に至り胆石病のいたみ出で慈音病臥す。然して是より東京市内の爆撃止む。
慈音よ。我等が汝に教へつつありたることは決して無意義にはあらず。汝は天界より是を見るあらん。我等の教へは次第に普及され、一部は削除せらるるあれば、一部は加わる等あれども原本はその儘残されん。各国は奪い合ひて是を読み、東洋は東洋人に、西洋は西洋人に委ねずば永遠の平和は望まれじとの声喧(かまびす)しくなり、日本を滅ぼすなかれの声、次第に起り来たらん。慈音よ汝の努力は決して無意味にはあらざるぞ。悲観せず気力を落とさず、教主の命に従い、生命あらん限り教へを受けて是を中外に発揚せよ。
汝等は厳戒の辞に依って運命の開拓を計るべし。



帰途案内記  143P~147P          セイキョウ貴尊講述


八大門の名称チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの僅少一五文字にて全宇宙のすべてを尽くし、きわめある事と承知せよ。我等は是を厳戒の辞と語りおきたり。この言葉は信力にも会ひ、法力にも会ひ、その他森羅万象悉くに通ずる神語なりと思ひて、軽率の取り扱ひなさざるよう注意なしおくものなり。ここに今ひとつ注意することあり。そは他ならず。シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの七つは一四の備へを有し居るに拘わらず、千は唯一文字となりおれり。是に対して世人は何等心づかざるならん。このチの一文字こそきわめて大切なる音にして、チとシュの間には一個の無言詞の言詞が宿りおる事を知らざるべからず。 今日迄、我等語らざりしは教主の許しなかりし為なり。今これが許されたればかたりおくべし。
此発音は非常に大切にして此言葉の如何によって、信力法力は現はるると現はれざるとの境となるなり。千の一字空しければ後の一四音も空しくなり、千の一字完全に発音せらるれば、後の一四音も是に従ふと知るべし。即ち、千とは形の発音にしてシュの間に心の発音をなし、更にシュの形の音を発するにて、千とシュの発音迄は決して呼吸することなかれ。又千の発音を長く引かばそは形を表す音となるによって、一六文字に化せらるる故に、チの発音をなさば直ちに呼吸を止めて、然してシュの発音に移るにあらざれば通ぜず。是等にはすべて法力通力の具備あるによって、少なくしく語らずば解すること難からん。依って具体的に説明せん。

先づチと云ふ言葉は相手方に対して、我より語らんとする合図の言葉にして、シュとの間の無の音は、是より語らんとする目的の意味を、心に工夫して言葉に組織せんとなす間のゆとりに相当す。然して後のシュの音にてそれが言葉となりて相手に通ぜしめ、然してキュ、ジョウと次第に詳しく話を進め、センに至つて全く己が望を語り尽くす結果となると思はば可なり。チとシュの間の無音は、所謂祈念発願の音なれば、要はこの無の音に帰する事の大切なるは、推して知ることを得るならん。然して後の七つが、その祈念発願の意味を、完全に相手方に納得せしむる要具なるが故に、現はしかたの如何によっては、先方は聞き届け呉れるか、或いは聞き届け呉れざるかの、何れかに終る。故に己が目的をはたさんとならば、心をこめて先方に諾と云はしむるに至る底の力なくんば、目的は達し難からん。この理をよくよく認識して厳戒の辞を神に捧ぐるに当たっては、有耶無耶の心持ちにて祈りをなさば、通ぜざること多からん。故に此言葉を厳戒の辞と称したるなり。厳戒の辞とは己が心底より発する真実の言葉を云ふなり。故に無言詞音の間に、己が目的を心の底より現はしをきて、後の音をその力を、更に拡大強力になして他に心を移さず、真剣に願はざれば、諾の許しは難しとの念を強くせよ。然る時は何事も叶えられて決して否とは仰せられざるなり。我願ふ事の善悪に不拘、心の底よりかくと決意したる望みならば神はそのものの結果如何に不拘望を叶へさせ給ふなり。
此法は文面に現はすとも理解は聊か至難なるべし。よって是は指導者によって直接に教へを受くる方納得は速からん。されば慈音はこだま会に於て、会員に対して円海より語らせられたる如く、尺度計を与へんと語り居りしは即ち是なり。さりながら此書は会員ならざる人にも読まるるものなれば、その内容を詳しく知らんとならば指導者の誰彼に至って教へを受くべし。然し此書によって会得理解なしたる人ならば、教へを受けずとも自ずと通ずる拝みはなさるる筈なれば、唯疑はずそれにて可なり。正しくさとれば迷ふことはあらざるなり。迷はずして拝みすれば正しく通ず。兎に角一心不乱になりて無音の時呼吸を止めよと云ひしは、その呼吸を止むる間に念をこらせよと云ふ意味なれば、それにて大要は悟り得る道理あるなり。呼吸をなさば念は砕けて組織されざるが故なり。此事にさへ注意し居らば後の七つに運びを進めて、一つ一つに力を強くし行く事の法は判明するならん。聊か言葉の表現が 不充分にして判断に苦しむならんと思へど、是を分かり易く説明すれば、却って後の結果に危険を伴ふ恐れあるによって、かくも曖昧に語りたるなり。
円海が会員に対して尺度計を与へると語り居りしは、即ち厳戒の辞を正しく用ゆる方法を語りしにて、普通の目盛りしたる尺度計と異なり。是が念力を一段一段と強からしめて、信ずる力を強力にはたらかせ、魂を完全に育つる事を計る術を、尺度計にたとえて伝へんと語りたるなり。完全な拝みを一回二回と重ぬるも、是一段一段と階を上り行くが故に、天界の階段を一歩一歩上り行く尺度計となるは、是理なるべし。世人はこれらの教へを受るに当たり、唯然あるかとのみにて耳をかすめなば、勿体なき事にて所謂猫に小判の譬喩とならん。心して勿体なし、有難しとの思ひを充分心に貯へて教へを受くべし。軽率に聞き流し軽率に取り扱ふことなかれ。もし軽率に取り扱はば転落する憂ひあらん。
是は恐怖心を抱かせんが為に用いたる言葉にあらず。語る者は一心不乱なり。聞く者一心不乱ならざるべからず。教ゆる者、教へられる皆共に心を一にして真剣なる態度にて、伝授にあづかれよと注意するものなり。



慈音が今日迄肉をそぎ骨を削る行をなしたるに不拘、今日迄完全に此拝みを受け居らざるに不拘、世人は何等の行もなさずして教へを受くるとは、何という幸福なるかに心を置かば涙こぼるる程、有難しとは感ぜざるや。訳もなく語り聞かさるるが故に、訳もなく受け入れて何らの思い遣りもなきならば、所謂猫に小判の譬喩にすぎざらん。慈音が苦しみしは世人の罪を己が身に引き受けて、然して世人を安からしめんと計りたる結果なれば、世人は是等に対しても感謝の心を起さざるべからず。感謝の心なき人に語るも詮なし。されど集まり来る多くの人の中には、その感謝の思ひ遣りが強きもあらん。その思ひ遣りの強き人程受けたる教へは完全にはたされて、幸福はたちどころに得らるるなり。世人よ、慈音の行を空しくなす勿れ。空しくなさば慈音は憫なり。彼は己の利益を考へず、己を犠牲にして己に持てる分野の力を現はして、世に捧げんとなしたる小さき心を、汝等汲み取りて思い遣りの念を起さば、汝等にもその思ひ遣りの心が厳戒の辞に現はれて、慈音をも救ひそれと同時に汝等も亦救はるる一石二鳥の結果とならん。



因果論  91P                   ミキョウ貴尊講述  


自問自答是最初の教への法なりしならん。光明論に於て語られし厳戒の辞是また法なるべし。然してその大切なるわずか八文字の言葉の範囲万般にわたり居る道理も推して知ることを得るならん。恰も赤子の泣き声一つにて訴るに等しと考へなば、その八文字一五文字の意味の深きことは、神によって観察さるる道理も推して知ることを得ん。赤子は母を知らずして母に抱かる。汝は神を知らずして神に抱かれ居ることを、よくよく考慮しよくよく自覚認知せよ。是即ち法の大意なり。
法はむずかしきことにあらず。きわめて至極簡単なることを知らば、凡てのものを箸とり喰う術も従って会得する事を得ん。汝は修行して智慧を求むるに及ばず。唯信念を深くなすことに意を用い居らば、それにて神の力が汝に宿り、その宿りたる現はれは即ち智慧となりて汝を救ひ給はん。故に貴尊が仰せられし神を知らずともよし、汝の心に神を作りなば如何にと仰せられし事の理も従って明らかとならん。神を作れとは、即ち汝の心を汝の魂を常に清浄にして濁りなきものになせよとの教へを深く認識せば、それにて神は汝に来りて汝を強くするならん。要は即ち邪念悪念を排除なさざれば清らかな水は得難し。濁れるものを排除するには信念と云ふ力を必要とするなり。信念を深くする法とは何か。
所謂拝む心、祈る心、念ずる心なるべし。それには何に依ってなすべきか。即ち、厳戒の辞を朝夕油断なく用い、汚れを拭ひ去るにあらざればあるべからず。



因果論  93P~94P                ミキョウ貴尊講述


世人は今貴尊方より教へられたる様々の事柄を行はざるは信の薄きゆえなり、信の力厚ければ念は自ずと強くなり、信、念合体すれば法術は自ずと自覚するを得るなり。法術そなわり来たらば通力又徹す。世人は口にこそ一心不乱と云ふ言葉を称へ居れど一心不乱は容易の修行にてはなし得るものにあらず。一つの心を乱さぬ底の行そなはらばそれにて信仰は得られたる現はれなり。信の力そなはり来たらば念は次第に強く化せられ行くは道理なるべし。例へば汝等神をたのみて何事かを祈念する時、長き時間祈らばその間に種々様々の雑念が生じ来りて、その祈念の事柄を妨ぐるを我等よく知る。又我等も最初はかくありしなり。例へば世人は五分間正座すると仮定してそのわずかの分時の間に一つのこころになり居る人は稀なり。わずか五分の間にすら雑念のわき出でて一心を攪乱なすにてはあらざるか。一心乱れなば決して通ずるものにあらず。是を知るによつて貴尊方が教へたる八文字一五音の短き祈りの言葉を授け給ひしなり。八文字一五音の言葉はわずかに三二秒にすぎず。此短き間ならば誰もが一心不乱となることは至難にはあらざるなり。もし三二秒間に雑念起る底の人ならば更に是を節減して八秒にて行はばそれにても可なり。この八秒間の間に雑念生ずる人ならば更に短くして二.三秒にてもよし。是をなし居らぱ従って雑念は次第に滅消して遂には一時間二時間の長き時間なりとも、決して雑念の生じ来るものにあらず。故に時間の余裕の有無に不拘是を精々行守なし居らぱ、それにて汝の信力念力法力は強化せられて遂には自覚するに至らん。世人の智慧にて此理をよくよく考慮して工夫せんことをすすむるものなり。世人の正座の姿は精神統一とか称し居る方は、一つの心を動かして他の雑念を抑圧なし居るにすぎず。故にその一つの心は恰も乱れたる糸の如く力うすし。故に抑圧されたる雑念は反抗を強くして押し返し来るによりて、統一の法は熟達せざるなり。かかる事を生涯続け居りても決して成功するものにあらず。まことの精神統一とは精神を一つにはたらかせ、雑念を枯死せしむるにあらざれば成功するものにあらず。所謂精神統一とは即ち信念を強くして雑念に相当する邪念を払ふにあらざればまことの統一とは云はれざる故なり。世人は唯静座と云へば静かに座りて腹部に力を込め居らばそれにて可なりと思ふが故に体力は汗するのみにて精神には変化をあたへ居るざることに留意せざる故なり。是あやまりたる方法をなし居るによってかかるあやまちをなすにすぎず。是等はよくよく考慮して工夫し見るべし。座禅するものに公安を与ふるは是故なきにあらず。信仰の力を強からしめんがための方便によって、公安を与へ居ることもうなづき知ることを得ん。臍下丹田に力をこめて眼を閉じ歯をくいしばりて力み居るは、肉体運動にすぎずして精神にはわずかの変調を来たすにすぎず。是等の理をよくよく考慮してかかる苦しき行をなさんより簡単なる八文字一五音の祈りを信じて行ひ居らば、その広大無辺なる徳は現はれて汝の心は魂は悉く清浄せられて邪念は消滅することを深く強く信ずる力を備ふべし。是日々の行務の傍ら簡単に行ひて、然して大徳を得らる一石二鳥の銘法なることを我は立証して汝等に勧むるものなり。信ずべし。疑ふことなかれ。是我等の確言して憚らざるところなるによってなり。世人は是等を道理と思ひなば信は得らる。信の得られたる人ならば、必ずや実行に移すならん。実行に移さざるは信なきが故なり。




因果論  百十二p                                   ミキョウ貴尊講述


引力を旨としたる統一には即ち引力に重点をおきある故、引力より圧力に及ぼす故に、気光素の原理に化せられて完全に統一はなし得らる。されど圧力を旨としたる方法は圧力対引力となるによって、是は光気素となりて苦痛を伴ふ。これ光気素なるによつてなり。此事柄より考察する時、神を拝む神に祈ることの大切なるは世人にもよく感受したるならん。日々怠らず拝みせよと云ふことは即ち引力を養へよと云ふことに他ならず。即ち引力を強ぅせば従って圧力は伴ふ。故に引力より圧力に化する気光素の現はれとなることを教へられたる故なり。拝む心は引力なるべし。然るに世人の拝み居るを見れば己が心を外に外にと向け居る拝みなるによって、入り来るものも入ることを得ず。故に神は否神の力は世人の上に来るとも圧力と云ふ扉を固くなし居るが故に侵入は不可能となるなり。来れよと云ふならば何故門戸を開らかざる。唯門戸をとざして家の内より来れ来れと叫ぶとも来りしものの入るあたはずは当然ならずや。これ圧力対引力となり居る拝みなるが故に、通じても及ばざる理をよくよく考へよ。汝の前に立ち居る天の使は汝の眼に映らざるは戸を閉ざして外を見るに等し。此理を認識なしたらば圧力の戸は開らかるることを工夫せば、拝みの方法も従来と異なる拝みに変へざれば通ぜざる理も推して知らるるならん。外部に外部にと心をはたらかせての拝みはかへれよかへれよと云ふに等し。内部に引き入るる招きにあらざれば入り来るものにあらざる理は、よく世人にも理解なし居るならん。故に拝みする時はすべて己が心の中に引き入るる底の拝みにあらざれば成就するものにあらずと考へて拝みせよ。これ等の事柄をくはしく語りたきは我の本心なれど行法秘伝に属するが故に許されざるなり。唯かく語るに止めずば公になすことを得ざるが故に詳らかに方法を語る事は避くべし。故にこの事柄を認識なしたるひとならば自づと理解して、己が智慧をはたらかせて、その方法を自然把握することを得るなり。
 何故この事柄をくわしく語らざると世人は疑ひ不審するならん。もし世人の中に是を悪用するものがあらば世を傷くる憂あるによってなり。所謂念力を悪用して人命を傷くる等の行為をなすことを得るによってなることを附言しをく。又法理を応用して催眠術、感応術などを理解することも至難にあらざる故なり。催眠術、感応術、読心術の原理は是等の方法の用法によつて如何ともなし得る術、なるによって、人心の善不善を鑑別してその善なるものには特に許さるるなれど、悪事に用いらるれば害毒となる怖れあるによつてなり。故に拝みすることの大切なる理を認識して常に引力性に富みたる拝みをなし居らば、修養の道は開らかれて明らかとなることを説明なし居るなれば、よくよく考へて従来の拝みを変更して引力性なる拝みになさざればすべては成就せざる事を承知せよ。



因果論  279P                  ミキョウ貴尊講述


道は遠きにあらず。又近きにあらず。遠近の区別なければ一度拝まば一度進む故に、拝みは如何に尊きかを知るべし。厳戒の辞を一度称へればそれだけ歩みは進み居るなり。チと云わばチだけ進み、シュと云わばシュだけ進み、キュと言はば又それだけ、
わずか八文字の音に対してその一字の持つ力の大なることは、称へ居る汝等には亳も感ぜざる如く思はるれど、是がその一勺によりて進む力の大なることは我等はよく知る。されど世人には如何ほど進みたるかは感ずる事あらざるべし。
例へば一個の原子爆弾が投下されて、その力にて何万と云ふ人命、或いは器物等破壊せられたるを見て、世人はふるへ戦き居るにてはあらざるか。この厳戒の辞に於ても同様のしるしは爆弾以上のはたらきをなし居ることにひきくらべて考ふれば、我等に云はしむればその一勺が原子爆弾の比にあらざることを知るによって、かくは語り教ゆるものなり。世人はかばかりのこと何かあらんと思ひおれど、そのかばかりの事がつもりつもらば大なる障碍ともなり、又大なる効果ともなり居ることには気附かざるや。我先に語りし滴水の法の如く、一滴一滴の水がつもりつもりて大なる瓶を満たす理より、又水源のしたたりが大河に注がるる如く、つもれば大なることも推して知ることを得るならん。よって断間なく法を行ひ、拝みをなして、日々の業務を怠らずば、やがては心魂一体の大なる海と化せらるるは、是又道理なるべし。



絶対界  155P                    テッシン貴尊講述


厳戒の辞、即ち、チ、シュ、キュ、ジョ、ギョ、コウ、フク、センの一五文字に他ならず。是が繁茂して種々様々に枝葉をのばさば、そは真の言葉となりて神霊に通ず。仏教者の云ふ題目とか称名念仏とか云へる文字も即ち種子なるべし。されど厳戒の辞は、宇宙全土に通じて外るることなく、すべてにわたって貫通す。故に己の心底よりわきい出てそれが言葉にて云ひ現はし難くとも、厳戒の辞を送らば忽ち枝葉となりて、その意味を何ものかに通ぜしむることを得るなり。是即ち無言詞の威徳なるによってなり。



大霊界 137P~138P                教主寛大講述


汝等に教へたる厳戒の辞、是等も無言詞をあらはさんがための符号にすぎず。わずか一六音より全宇宙に伝わりて通ずる無言詞を、わずか一六の符号にて知らしむる簡単なる符号が、伸びゆけば大なる威力をあらわす。斯かる尊き、否巧みなる名文は何処にある!
仏教者の拝みする七字の題目六字の名号、是等もみな無言詞を現はさんがための縮小語なるべし。されど厳戒の辞とは相似て異なるなり。これが詳細を知りたくばセィキョウ。テッシンに聴け。我、ここに語るを避くべし。汝等諸子は一寸先は暗の夜と思ひ居れど無言詞をきく力備わらば一寸先は光明の世界なり。故に明るし。無言詞界の奥には大霊界あり。大霊界ある故に、無言詞界のはたらきがなされ居るものにて、大霊界とは全宇宙の中心にして光明の世界とは、即ち大霊界を措いて他にはあらざるなり。この処迄帰るにあらざれば、神の世界とは如何なるものかを知ることを得ず。ここに帰ることによって実の親なる神に対面することを得ると知るならば汝等衆人の修行は前途遼遠ならん。屈せず撓まず一心に進まずば、望みの地点へ帰ることは容易のわざにてはあらざるべし。迷ひの心を起して傍路にそるることなかれ。迷はずば大自然の力は必ずや汝を、この処に帰らしめんこと疑ひあるべからず。



大霊界 185P~188P                 教主寛大講述


例へばここに千人の人あり。その千人が悉く界を異にする人種の集合なりとして、このすべてに、理解せしむるには如何なる言葉もて、伝ふべきかを先づ考へ見よ。一国人に通ぜしむれば、九百九十九人には通ぜざるべし。されば一つの口にて千界語を語るそなわりはあらざるならん。千国人に千国の言葉を語る底の学者も亦あらざるべし。文字にて知らしむることは尚更困難ならん。慈音がミキョウに導かれて我講義を聞きたる時、千国人はおろか億国人も集まり居たるなり。
然るに語りし我は一人なりしに不拘、全部の者に通ぜしめてあますことなかりし点より見るも、無言詞の感応は如何に勝れたるかは察するを得るならん。今我是を語り居れど、慈声にのみ認めさせ居るにはあらず。他界のものに対しても是等の教へをなし居るなり。故に感受力より文章の点に於て異なることは多けれど、帰するところ同一の結果となるなり。故に文字文章に囚はれ居りては理解は容易に得難し。されば諸子は文字文章に拘泥せず、読む人の心の相違にまかすべし。例へばこの事柄は文字の上には斯く示めされ居れど、是はこの意味ならんと思ひて、脳裏に泌みこませ居らばそれにてよし。我等の説に対して言葉咎め文字咎めをなすことなかれ。又文章の巧拙を論ずること勿れ。所謂月を見て見る人の心に任すと同様に此書を見ば可ならん。是には一種の法力備へおきたるによってなり。慈音は我に対して日本の現今用い居る口語体にて語れよと要求なしたれど、我はこれを斥けたるたり。そは法力を以て此書を読む者の心を明らかにせしめんとする老婆心より出でたるによってなり。円海が常にこだま会に於て語り居る講義にすら皆其ぞれの聴取者に異なりたる感銘を与へ居るにて、語る言葉は一なれど感ぜしむる相違は、聴く者をして一種の感じを与へ居ることは、是即ち法力を用い居るによってなり。汝等この理を知るならば厳戒の辞即ちチ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、セン のわずか十六音程に含まれ居る無言詞の法力は、如何に偉大なるかを知ることを得るならん。もし是を知らずば知る迄称へよ。然することによって優れたる法力は汝等のものとならん。法力そなわりて汝等の心は、暗黒より次第に光明に化せられるによってなり。我等が語り居る言葉に対して、慈音は彼是思ひ惑ひて、言葉の誤ちを探らんとして苦しみ居れど、我は是を許さず。口をふさぎて語らせ居るなり。口をふさぎて語らすとは、汝等諸子にはその意味理解することを得るや。口をふさぎて語らせずと云ふならば、誰にも理解することを得れど、口をふさぎ語らせ居るなどとは、諸子には到底解し難きは我もよく知る。されど我等は斯かることをなすは訳もなきことなり。眼をふさぎて見せ、耳をふさぎて聞かす等々、決して至難の事にあらず。我等なさんとせばなし難き事もなし得る力を有す。是法なり。いささか話は横道に入りたる如く思ならん。されど是は横道にあらず。即ち無言詞を以てして無尽の法を授けんとなし居るなり。法力そなわりてその力がすぐれ行くごとに、光明の威力は増大し十方世界は明るくなるなり。知らざることを自然に知り得る力は他にはあらず。無言詞によって無尽の法を伝ふるにあらざれば目的は達し難し。仏教者が六字の念仏七字の題目によって往生せしめんとはかるも、わずかの音程にて法力を以て導かんとする術なれど、是等は限度を有す。故に他力自力の区別となるなり。されど厳戒の辞は無言詞無尽法なるによって、限度を有せず、永久不変の法力なれば、はてしなく全宇宙にみなぎりてあます処あらざるなり。是自他一如の教へなるによってなり。自にも属せず、他にも属せず、一体化なしたる法力は、如何に変化せしめんとなすとも、決して犯さるるものにあらざるが故なり。他力の念仏自力の題目等は、一方的にして通ぜずと語りしに対して厳戒の辞は自他一如の法なれば、すべてに徹すと語りたるに対して、諸子は疑問を抱くならん。念仏も言葉なり。題目も亦同様にして、厳戒の辞も是に等しと考へなば、そは道理を知らざるが故なり。されば是等に関していささか説明なしをかずば、無言詞の一大事を知ること難きによって語るべし。厳戒の辞は空,虚の如何を問わず、是を通過するはたらきを有し居るが故に、空にもをかされず、虚にもをかされずして、自由に是を通過す。この理は空、虚一体となりたる力あるによって何れにも偏らねば、通力は自在なりと思ひて練習すべし。文字言葉にては現はす底の念仏題目は、口先念仏口先題目にすぎず。是空にもあらず、虚にもあらざるが故に、通ぜざるなり。故に虚(から)念仏虚(から)題目となるなり。
我等の教ゆる厳戒の辞は口に出さずして、心にとなえよと教へをきしも空、虚一体なさしめんがための方便にして、心に称へ魂に称へ霊に通ぜしむることの、一大事を教へんとして斯くは語りたるなり。されば口に出すもよし。されど虚(から)言葉となすなかれ。思ひあまりて思わず口外する底の処迄到らしめずば通ずるものにあらず。念仏題目に於ても亦同様の関係あるなり。文字言葉に囚われることなかれと云ふはこの理なり。即ち厳戒の辞は光に化せしめんとせば光となり。温度を保たせんとせば又保たすことを得ると承知せよ。即ち自由自在の思ひを通ぜしむる簡単なる方法なりと思ひて、常にこれを忘れず怠らずなすべし。口先にて称ふる事なく、から念仏から題目となさぬ用心肝要なり。空、虚一体化してはじめて実を現はす。所謂厳戒の辞は無言詞を引き出す動力にすぎず。無言詞を求めてその無言詞より更に有言詞となし、それによってすべての迷ひを晴さんとする方法の言葉にすぎず。是等は他に意味を有せざるなり。斯く語らば厳戒の辞などは称ふるの要もなからんと思ふならん。されど事実は然らず。是には尚も深き意味を有す。厳戒の辞を全く我物となすにあらざれば、その意味は言葉にては到底理解することあたはざるなり。何となれば無言詞なるが故なり。無言詞なるが故 にすべては通ず。斯かることを語るとも汝等衆人到底納得することあたはざるなり。又今は是を知らずともよし。軈ては心の底より是を覚ることを得ん。疑ふことなく唯然あるかと聞きおきて可ならん。されど称ふる事を怠ることなかれ。
怠りては何等の価値なし。道理を知らずとも唯然あるかと思ひて称へ居らばそれにてよし。道理を知りても称へずば何等の価値もなきなり。汝等衆人は道理を聞きて物事を納得せんと考ふるが故に、正しきさとりを得ること能はざるなり。たとえ迷信にもあれ、行ひに移して効なくんば捨るも可なり。効あらば迷信も正信となる。汝等の世界の迷信妄信は既に汝等の世界に於て、体験したる事柄を教へ居るが故に、迷信正信の区別は明らかとなり居れど、我等の世界に於ての事柄は、何一つとして知らざる諸子なれば、汝等の世界の迷信妄信にあてはめて、是を研究せんとなすともそは及ばざるなり。諸子は最早第二段階に移されて是より我教へを受くる身なれば、迷信正信の区別を考ふるの要もなからん。我等は無益なる迷信を汝等に授くるものにあらず。正しき教へをなして、汝等諸子を引き上げんとはかり居るなれば、疑ひを捨て聴聞すべし。



大霊界 289P                       教主寛大講述   


何処如何なる所迄進み行くも、母は汝を守護し居ることに気附くならん。母とは誰ぞ、母とは誰ぞと追求せよ。地獄に行くも母あり。極楽に行くも母あり。母の力は広大無辺なるべし。母は積極的にして父は消極的なり。されば消極的の父とは誰ぞ。此処において絶対の母、絶対の父のあることに気附くならん。生れしは我にして産みしは母なり。又父なることに思ひを致さばチッの意味は理解することを得る筈なり。チを表面とせばッは影となる。チを裏面とすればッは表面となる。さらばチッとは何を物語り居るか。是を有言詞に現はして汝等の心に分かり易く説明するならば、チッは即ち父母の姿、或は父母の思ひやり、父母の心と見なして可ならん。父母なくして宇宙のすべては現はれざるべし。父母ありてこそ宇宙のすべては構成せられつつあるなり。
是をチッと称えてすべての事柄をこの二文字によって理解せしめ居ると知らば可ならん。大霊界のはじめの門は唯チッの二文字によって現はされ居れど、再生門として語るならばその範囲きわめて大きくして文言によって是を語り居らばはてしなし。チッとは斯くも広大無辺なる言葉にして、いわば赤子の泣声に等しと思わば可ならん。イイと泣く赤子の声は遠くにありても母は直ちに馳せかへりて是を抱く。恰もその如くチの一字は神を呼ぶ一声なれば、何処にあるとも神は汝に至らん。故に厳戒の辞を称ふる人は、その心して称ふべし。さらば大霊界の門は開かれて汝等は神によって、否母に抱かれて迷ふことなく此所に移さるるは、空の原理なりと思ふも差支へなからん。厳戒の辞を称ふる人は、一六文字の言葉をすべての全宇宙の姿なりとして称ふる程度迄、進ましめんことを我等は望むものなり。
是無言詞によりて有言詞に化せしめたるによつて、その功徳は深淵なりと思ひて粗略になすことなかれと誡めをくべし。斯かる尊き言葉なるによって厳戒の辞と仮称して諸子に知らしめたるなり。現今の宗教者が語る往生とは大霊界を指すにあらずして選魂界を語り居るにて他ならず。選魂界に往生したりとて何かあらん。これより後の苦患は一朝一夕のことにあらず。真のすぐれたる往生、即ち再生門に生るるにあらざれば、真の往生とは云はれざるなり。仏教の極楽と云ひキリストの天国と云ふは、肉体を離れて直ちに移さるる選魂所にして極楽にあらず。天国にもあらざるなり。汝等諸子は肉体を有する間に再生門の有様を見る力を養ふには、油断なく厳戒の辞を称へて、無言詞によって神と語り、大自然と語る底の処迄至らば、大霊界の姿は居ながらにして手に取る如く現出し来たらん。



大霊界 303P                      教主寛大講述  


わずかチッ、シュ、キュ の三文字六音によって斯くも広き範囲にわたっての力の意味は含まれあることを知らば、厳戒の辞の如何に勝れたる言葉なるかは知ることを得ん。実に有難きことならずや。語らずしてすべてを知らしむること、厳戒の辞に勝るものなしと云ふも過言にあらざるなり。されば是を称ふるものその心して称ふるにあらざれば無言詞とはならざるなり。唯文字を発音するのみにては何等の価値もなし。されどその言葉の意味の有難きことを心に貯へて称へなば、全宇宙に漲りてその思ひが貫徹し、然して希望は充たさるること云ふ迄もなし。



大霊界 307P                      教主寛大講述


慈音は五大鏡八大門を見聞して、既にその有様を修め居りて至るべき方向を、前途に明らめ居るにてはあらざるか。彼は無学文盲の徒にして何一つ知り得ざる愚昧の徒なり。にも不拘是をさとり得たる力は、彼の如き肉体にも備はりあることを、汝等諸子に知らしめんが為に大自然は彼を導きたるなり。慈音にして才能すぐれて学徳の具備たかかりせば釈迦キリストの如く汝等世界の人類よりもてはやさるるならん。釈迦キリストは己に修めたる事柄を言葉巧みに吹聴して、汝等諸子に知らしめたり。慈音は無学無能なるによって斯かることをせず。唯我等の語る言葉をその儘に此書に残しをきて、才能すぐれたる人の手によって後に後輩者の為に、世の中の為に役立せんとなしたるのみ。他に望みありての事にあらず。智慧なき慈音に於てすら悟らば斯くの如し。まして才能備はりある汝等諸子は、その学びたる学徳才能のはたらきが却って、わざわひをなして彼是思ひ惑ひて、天界の様など探知せんとはなさざるならん。故に知ることを得ざるなり。兎に角汝等諸子の肉体には、大自然の具備がある事に対してこの方向に智能をはたらかすれば、直ちに発見することは易し。徒に従来学び来りたるすべての学問より、是を測定せんと計り居らぱ其は唯時間つぶしにすぎず。斯かることをなし居りては限度ある肉体は亡びての後迄、連続すれば迷ひは益々深くならん。先づ従来学び来りたる学問等々を暫時の間応用せず、是等を棚に上げて、然して大自然より与へられたる霊魂を早く発見して後、棚より取り下ろして其れを応用せば望みは早く成就すべし。ここに注意することあり。
霊魂を発見せんが為に種々様々の宗教、或ひは魔法等を学び居らば、神経衰弱或は脳に異状を来たし錯覚などに陥りて、却って瞑道に陥る恐れあれば、誤ちたる方向に思ひを致すさず正しき論理を学びて、是によって道を求めんことを計るべし。諸子は霊魂を引き出ださんとして精神統一とか云へる方法を、用い居れることを我等はよく知る。この精神統一なるものの方法として、静座座禅等の行為をなし居ることは悪しき事にあらねど、そは却って精神の苦痛を招き、稍々もすれば幻影錯覚に陥りて、果てはその方に傾き易くなる事は慎まざるべからず。斯かる危険なる方法を用いずとも、ミキョウが自在論に於て教へたる自問自答の方法は、きわめて簡単にして副作用を起す如き誤ちなく、安全なるものなれば是によって霊魂を引き出すことは得らるるなり。さりながらこの方法は安全なるが故にいささか時間を要す。されど修養修行とは肉体を有する間、間断なく行ふに不如。汝等諸子は余りに時間を急ぎすぎて却って危険なる方法を用いること多し。修養修行は肉体の有する間たえまなく行ひ居らば、それにて望みは達せらるるなり。よって気長く行ふべし。汝等の言葉にも急がばまわれと云ふ諺に徴しても知らるるならん。自在論行法に於て教へられたる事柄を実行なし居らば、それにて目的は成就するなり。厳戒の辞をたえまなく称へるも理は一つなり。珍しきことを聞きて面白半分そのことに傾くことを止めよ。斯かることは気まぐれ信仰となりて、却って修養修行の妨げとなるのみ。何等益するところなかるべし。汝等衆人のなかには流れ信仰(仮称)の人あまりに多し。珍しきことあらばそれに傾き、彼方此方と種々様々なの教へを受けて、気まぐれに行ひ居りては大切なる修行の障碍となるのみなれば、よくよく注意せざるべからず。霊魂は天界を知る。霊魂は常に汝等の肉体と天界を往復して分秒も止まり居らざる故に、諸子は霊魂にすべてを委せ居らばそれにて望みは達せられるなり。


大霊界          教主寛大


キュの門に於て学したる千七百二十八 (但し大霊界にては数と云ふものあらざれども諸子を導く方法として仮に数字を以て現はし居るなりと諒知せよ) の教へによって是を基として、すべての事柄を学び終りて我物となしたる時、その働きの力が自然に現はれて、赫々たる光明の輝きは全宇宙を照してあます所なきに至る。されど未だ行中にあるが故に、是を以て任務に服することを未だ許されざるなり。唯育ちに育ちて己が力を益々強くなさんがために、更に進んでジョウの門に移さるる迄間断なく勉学にいそしみ居ることと承知せよ。次の門に移さるる迄の間には、千七百二十八更に四千九十六の全部がそなはるによって、すべてはあます所あらざるなり。千七百二十八とは十二の三乗にして四千九十六とは六十四の二乗なり。是等の詳細はジョウの門の講義終了てその後に語ることとせん。兎に角キュとは斯くの如き広き意味を有す。
  こだま会の会員は円海が易学を語り居るによって、此書を読むもの認識することは速やかならん。わずかチッ、シュ、キュ の三文字六音によって斯くも広き範囲にわたっての力の意味は含まれあることを知らば、厳戒の辞の如何に勝れたる言葉なるかは知ることを得ん。実に有難きことならずや。語らずしてすべてを知らしむること、厳戒の辞に勝るものなしと云ふも過言にあらざるなり。されば是を称ふるものその心して称ふるにあらざれば無言詞とはならざるなり。唯文字を発音するのみにては何等の価値もなし。されどその言葉の意味の有難きことを心に貯へて称へなば、全宇宙に漲りてその思ひが貫徹し、然して希望は充たさるること云ふ迄もなし。キュとはすべてを究め尽すの意味なれば、修養門と仮称したるなり。理論の上に於ても又実行の上に於ても共に共に、その蘊奥を究むる事を得てここにはじめて、その徳の現はるること実に広大無辺なりと知るべし。


大霊界入門記    後編                 
最終の巻  センの門を越へて
                                                                
                                教主寛大講述
フアの門 フンの門へ


 さて、慈音に告ぐ。
慈音よ。汝今日迄労苦してよくその任に耐えたり。我、是を嘉す。汝も知る如くセンの門迄は尺度によって計算せば組織門にて終りとなり、更に是よりは九、十の門は結果期となる。よって是を汝に授く。今日よりは再童慈音の結果の門に入るを許したり。されば今日まで纏ひたる人間の衣は最早身に着くるにも及ぶまじ。よって自由の行動をとるべし。さりながら第九第十の門は極めて困難なる新しき行を修めざるべからず。よって人間界の事柄は最早汝には要なし。されど行は至って困難なり。又苦痛なるべし。従来は我等と衆生の間に立ちて板ばさみとなり居りしを衆生の方向への任務は許されたれば、唯一すじに我等の方向に向って邁進せば可ならん。是には五つの守るべき約束あり。
 第一、の任務は衆生に心惹かさるること勿れ。たとひ衆生が汝に眼を向けて如何に批評すとも耳を籍すにも及ぶまじ。意の欲するままに彼等に行動せよ。たとひ汝は狂人なりと見らるるとも斯ることには毫も耳を籍すに及ぶまじ。己が欲するままに行動して可なり。もし彼等に心惹さるれば汝の行は進まざるによってなり。謂はば衆生界を度脱したる底と考ふれば、却って心安らかならん。されば我にのみ従ひ来れ。
 第二、としては従来は我の語りし言葉を其儘に取り次ぎて慈声に記させたりしが、今後は然らず、我は唯汝を見るのみ。されば我意中を汝自ら看破して、無言詞によって有言詞に化せしめ、然して是を慈声に伝ふべし。一言詞すれば汝と慈声の対話となるのみ。我は唯真偽を見守るにすぎず。慈音よ。兎角初心の間は彼是迷ひ煩ひて是々非々の区別を知らねば、危ふき橋を渡る如く慄え戦くならん。然し我は汝を監督なし居るが故に誤ちたる処は我語りて正誤すべし。我より注意を与へざる間は真なりとして、他に心を転ずることなく正々堂々慈声に語れよ。
 第三、の教へとしては己のわざを又己の位地を誇りて表面をつくろひ、聖者の如き振
舞はかたく慎むべし。振舞は従来と異なることなく高慢なる心起り来りたる場合は、是を早くもとに復してたかぶりの思ひは決して生ぜしむることなかれ。今後は徐々に法力を伝ふるによって、その法力を訳も無き処に迄及ばしむれば、却って汝の身の破滅を生ずる恐れあることによくよく慎みて行ぜよ。法力全きを得て是を我がものとなし、然して他に及ぼす底の行ひは我等喜びて許すべし。我等の許さざることを行ふこと勿れ。第九第十の教へを全く修めて我ものとなさば、その時はすべてを許して我等は去る。其迄は謹慎の上に謹慎を重ねて、許されざることを許されたる如く考へて、他に及ぼす如き誤ちを犯すことなかれ。
 第四の教へとしては己自ら行中なりとして其がために、他に迷惑を及ぼす如き振舞を慎めよ。もし汝に食を与へ呉れる人なければ喰ふにも及ぶまじ。餓ゆればとて己より食を求むることなかれ。喰はずば死す。喰ひても死す。この道理をよくよく意中に貯へて行ぜよ。是、食のみに限らず他 のすべての事に対してのことなればその心して行ずべし。
 第五、の教へは己苦しくとも決して悲鳴をあぐることなかれ。たとひ肉体失はるとも悔ゆることなく又我等を怨むことなかれ。すべてを我等に任せ居らば其にてよし。死せしむるも我等の手にあり、生けしむるも亦然り。生死の考へは最早汝も明らめ居ることは我等はよく知る。されど行のために苦しければ是はなにか、我等より与へられ居る苦みなりとの曲解することなく修すべし。苦むは汝なり。我等は苦を与ふるものにあらず。苦しければ苦むべし。其は汝の自由なり。己、苦しとて周囲のものに迄責を負はす如きは、行者のなさざるところと承知せよ。是第五の注意なり。斯くしてこの講を閉づべし。次は附録として語らん。
(昭和二十六年九月12日から十月15日)

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