覚者慈音1064 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第二章 コウの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1064
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第二章 コウ の門


             テツシン貴尊 講述
               2019.6.18


 されば魂魄霊は無にして無ならず。わけて絶対無とも見るべき霊より相対無なる魂魄を現はし更に相対無とも見るべき魂魄は、心意の有を現はすに至ると見なさば心意は有なりとして取り扱ふことを得るなりと知るべし。此事柄を認識せずして修行すとも効果は得られざるなり。無を働かすと云ひ、或は無の言葉と云ふもこの理より生ず。
 泰岳は此理を有に応用なすによって通ずる事も頷かれたるならん。此門(ギョウの門)は心意魂魄の四つが流れ来りて霊に化せられたる姿を現はせると知るならば是を精神科学に応用して、新しき道を発見することも得らるべきを我は信ずるなり。其兎に角霊に化せられて生れたる魂魄その三つの無より現はれたる信仰も共に無に属す。されば信仰の力は有限性にあらずして、無限性なりと知るべし。信仰より更に生るる愛の力も亦無限なり。心意の愛は憎しみを有すれども、信仰の愛は無限なるが故に憎悪を伴はざるにより絶対愛なり。我今コウの門を汝等に開かんとす。
 ギョウの門未だ終らざるに汝等は不審に思ふならん。されどギョウの門とコウの門とは関連しあるにより、此二個の門を一体として説明せば理解は却て速ならんと思へばなり。コウの門を開くに先だち注意を要する事は汝等コウの門に入る時は、何事も考へず虚心坦懐にて入るべし。然らずば此門の真実を見ること能はざればなり。其は汝等が思へる心が其儘に映りて其思ひの終末迄見ゆるにて真実の門の姿を見ることを得ざるにより心を空虚にして見るべし。汝等先に見聞したる立体鏡とはいささか其有様に相違あれど原理は同一なればなり。又見聞中説明終る迄、同じ空虚のままにて見聞すべし。然らずば見をとし、聞き洩らす危険あるによりよくよく固守すべし。
 此コウの門に関する大体の説明を先に知りて実際を験すれば却て理解は易からん。然して後開らく事とせん。元来コウの門は二様に分たれありて、一様は気体又一様は光体に属するなり。故にコウの門は分解性の門として修養せば可なり。汝等の世界は平面なるにより立体観察はなし難きも、此門は立体なるにより一見にして看破するを得るなり。もしコウの門を汝等の世界にありとして是を見んせば、先に一方を見て又次に一方を見ざれば理解する能はず。又二様を一時に見ることは得ざるならん。然るにコウの門は一見にして二様を見聞することを得と語るとも汝等には到底理解することは能はざらん。そは汝等には絶対性原理を究めざるによりてなり。
 

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