覚者慈音973 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  正悟を得んとせば如何に修行すべきか  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音973
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
正悟を得んとせば如何に修行すべきか



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.06
                      242番


 賢者と覚者の相違は汝等既に解するを得たるならん。されど誤信と正信より受くる影響に依て生ずる迷悟正悟の区を明らかにせざれば真の悟を得ること難し。汝等も知る如く、同じ仏教に於ても自力宗の僧と他力宗の僧との人格態度を見るに其さとりたりと云へるにも、何となく相違あることも知らるるならん。わけて禅宗の僧と日蓮宗の僧と態度にすら異れるに気附くならん。是教への相違より生ずるさとりかたの相違より現はるる現象なり。己、真の悟を得ずして態度のみ祖師の真似をなす輩は多し。汝等己の分に応じて己の智慧に応じたる悟を得ば、即ち正悟を得たるなり。誤てる悟は却て身を亡ぼす悲哀とならん。一度悟して又迷ひに陥る智慧の悟は正しき悟にてはあらざるなり。汝等よくよく注意せざれば迷悟に終る恐れあるべし。悟道は絶対ならざるべからず。然れども汝等の世界は相対なるによって二道の区別あるによって、ここに迷ひを起して悟も亦二道に別るる故に、其是非に迷はさるるなり。例へばここに一本のキセルありと仮定して甲が是を持てばそは甲のものと云ひ、乙が是を持てば乙のものとなる。然らば其キセルは誰のものなるかと云へるに対してそは誰のものにもあらず。即ちキセルのものなりと答ふる如きは正しきか。然して其は絶対の答なるかと訊かれなば汝等は如何に考ふるや。汝等は是を聞きて成程と思ひ、其は確答なりと云ふならば其考へは魂魄の範囲にて霊の答にはあらざるなりと知るべし。何となれば其答は一見明答の如く思はるれど明答にあらずして奇答に属するなり。何となれば是にても尚理論は続くならん。即ち汝は左官なれば汝は汝のものならずして左官のものなるべしとの理論はなりたたざるべし。意味に於ては異ならんも類似の点には異ならざるなり。理屈は如何にともこじつけるを得。斯ることは魂魄の智慧に属するに依て智慧優れたるものには屈服せしめらるるならん。
 総じて汝等の世界は相対なるが故に、相対より和合を計りて絶対性に結ばざるべからず。故に其答は煙草を好む者の物なりと結ばばほぼ絶対に近き答となるなり。さりながら是等に属するは二股問題なれば完全絶対とはなし難し。そは汝等の世界は相対なるが故なり。さればすべて相対を結びてやや絶対ならしめ、更に進めて絶対になさしめざるべからず。
 即ち相対即絶対となすにあらざれば正悟は得られざるなり。キセルは愛煙家のものとの論旨が成立するならば神の造りし人は人のものにあらずして神のものなりとの理論も亦成立するならん。汝等は神のものにして汝自分のものにあらずと悟るならば勝手気儘の振舞をなすことはせざるならんと思ふなり。教主は先に我、語りたる自問自答の法を汝等に理解なさしめんとの心より頭腹一体の理論を説き給へり。是即ち自問自答すれば頭腹一如の行は達せらるるによりてなり。

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